イマ ワタシワ カタカナデ テンジフーノ カキカタヲ シテイマス。 キカイデモ ヨミヤスイ ハズデス。 テンカナ トデモ ヨビマショウカ。
カタカナデ カクト ナンダカ ロボミタイデ ナツカシイ デスネ。 デモ デンポーヤ センソーノヨーデ スコシ コワクモ アリマス。
イチマイ ヒトマイ ニマイ オニマイサンマイ ミマイヨンマイ シマイ ゴマイ オシマイロクマイ マイマイ
これを伝えるのは非常に心苦しくもあるのだけれど、たくあんヨーグルトがおいしい。
死者が存在した記憶が永く続く「朽ち無し」だとしても、体が朽ち果てる事が無くなるのはやはり体が朽ち果てた後という、なんともクチナシは奥深い。
にほんごこわい。
罪悪感って体が覚えとるんよねー。入院とかで弱ると頭で平気だと思い込ませていた事が突如として閻魔様の前に出る。死期が近い人とか罪悪感に苦しむ事が多いらしい。ということで、シナチク=メンマ=閻魔さまだ。
なんだか「とかなくてしす」の暗喩に思える。
白/濾紙だ。
「口+シ」の部分、お墓の絵文字だ。シは何だろう? プラスがカタカナのナの役割するってすごー。
▷にほんご怪文/回文口+死人にシナチククチナシニンニシナチク
にほんご死人に口無し死人に朽ち無し
日本のコマーシャルって結構、過去に何かやらかした人ドキッとするやろなって思うけど内容は全然関係ないCMというのを結構見かける。お天道さんが見ているを実践してんなって勝手に思ってる。
人が悩んでいる文章は同じ所をぐるぐる回ったり、ダレたり尻切れトンボだったりするけれど、それは体裁に限っての話だ。題材そのものに価値がある。その話をしてくれただけで良かった、ありがたかった、という文や言葉や名前に最近よく出会うのだ。
心の支えになってくれる人というのは解答を持ち合わせた人間ではなく、同じ悩みを持って悩んでいる最中の文章を書き出せる人なのかもね。私以外の。
人ハ本当ノ事ヲ言ウ時ハ怒ルモノデアルソンナ記述ガ残レバ人ハ嘘ヲ守ルタメニ怒ルコトヲ学ブ疑ワレタナラ恨ンデイルゾト何度モ何度モ後カラ後カラ怒ッテミセル嘘ヲ守ル為ナラ疑ウ側サエ真似シテミセテホラ、コンナニ良イ行動ヲシテイルゾト主張シ続ケルノデアル本当ハ嘘ヲツキタクナカッタカラ
狼扱イサレタガ為ニマネビ続ケタ良イ行動ハ真実ヲ明カシテシマッテカラモ続クノデアルイツマデモ、続クノデアル
罪は頭では分からない。平気だと知らぬふりさえできる。罪は体が知っている。危険な虫とて、やたらに屠れば夜に夢みてうなされるのだ。弔いや墓参りがあるのは、怒れる死者を鎮めるためではなく、自身で気付かぬ申し訳なさ、命に備わる、持て余す程の良心がそれを生み出したからなのだ。私はそう思っている。たとえ子供の遊びの中でも、じき、それは正常に機能する。
面倒くささは習慣の息の根を絶つ
自らの名前の愛着など明日の午後には既に分からぬ完全無欠の名前を探し欠点一つ、見つけて捨てていつまでも空っぽの名前の場所に今あるものの名前は命名の秘訣はあえて弱みを作り、許すこと
キリがいい/桐が良い
にほんご北斎の富嶽三十六景は8色(輪郭線含む)発色が良い/8色が良い
サイコロは目が見えないと目が見えん。
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