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 サカナクション/ミュージックの「ララララ」の部分について。ラはA、ドイツ読みでアー、和名ではイ。ドキュメントという曲にある「愛の歌」がここにさりげなく詰まっているように思える。また、「ラ」は「う」にも見え、うううと山口氏がうつで呻く様子にも思える。

これから父と母は
帰り道を行くのだ。
二人きりで食事をし、
親となった子に連れられて
外の世界と出会い、
痛みに耐えながら
生まれた子の
泣き顔を待ち侘びるのだ。

イチマイ ヒトマイ
 ニマイ オニマイ
サンマイ  ミマイ
ヨンマイ  シマイ
 ゴマイ オシマイ
ロクマイ マイマイ

 これを伝えるのは非常に心苦しくもあるのだけれど、たくあんヨーグルトがおいしい。

 死者が存在した記憶が永く続く「朽ち無し」だとしても、体が朽ち果てる事が無くなるのはやはり体が朽ち果てた後という、なんともクチナシは奥深い。

「口+シ」の部分、お墓の絵文字だ。シは何だろう? プラスがカタカナのナの役割するってすごー。

▷にほんご
怪文/回文
口+死人にシナチク
クチナシニンニシナチク

にほんご
死人に口無し
死人に朽ち無し

 日本のコマーシャルって結構、過去に何かやらかした人ドキッとするやろなって思うけど内容は全然関係ないCMというのを結構見かける。お天道さんが見ているを実践してんなって勝手に思ってる。

 人が悩んでいる文章は同じ所をぐるぐる回ったり、ダレたり尻切れトンボだったりするけれど、それは体裁に限っての話だ。題材そのものに価値がある。その話をしてくれただけで良かった、ありがたかった、という文や言葉や名前に最近よく出会うのだ。

罪は頭では分からない。
平気だと知らぬふりさえできる。
罪は体が知っている。
危険な虫とて、やたらに屠れば
夜に夢みてうなされるのだ。
弔いや墓参りがあるのは、
怒れる死者を鎮めるためではなく、
自身で気付かぬ申し訳なさ、
命に備わる、持て余す程の良心が
それを生み出したからなのだ。
私はそう思っている。
たとえ子供の遊びの中でも、
じき、それは正常に機能する。

面倒くささは習慣の息の根を絶つ

自らの名前の愛着など
明日の午後には既に分からぬ
完全無欠の名前を探し
欠点一つ、見つけて捨てて
いつまでも空っぽの名前の
場所に今あるものの名前は
命名の秘訣はあえて
弱みを作り、許すこと

にほんご
北斎の富嶽三十六景は8色(輪郭線含む)
発色が良い/8色が良い

サイコロは目が見えないと目が見えん。

不穏なにほんご
穏やかな年が訪れますように
穏やかな年が音ズレますように

2023年9月9日

*暑いと寒いを行き来する
 涼しさがない夜なのに
 何故だか心地よさに満たされ
 眠れぬ夜を行きている

*絶えず何かを学ぼうと
 虫の声さえ聴かずして
 白夜の照明を点けて
 暗闇をつまらぬと言う

*眠れぬ夜にはひとりごと
 存分に味わうのだよ
 夜という何もない時間を
 あらゆるものに気付く
 無視し続けた無の楽しみを

コノシロ ワカシ イナダ カラスミ
城若し買わずば稲田枯らさねど

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