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金があって好き勝手な暮しができたとしても、それで仕合せとはきまらないものだ、人間はどっちにしても苦労するようにできているんだから 【柳橋物語】源六

性格と境遇によって、人の進退はそれぞれに違う、世の中には先天的な犯罪者か狂人でない限り、善人と悪人の区別はない、人間は誰でも、善と悪、汚濁と潔癖を同時にもっているものだ、大義名分をふりかざす者より、恥知らずなほど私利私欲にはしる者のほうに、おれは人間のもっとも人間らしさがあるとさえ思う、【ながい坂】三浦主水正

「生きることはむずかしい」暫くして、郷臣は囁きのように云った、「人間がいちど自分の目的を持ったら、貧窮にも屈辱にも、どんなに強い迫害にも負けず、生きられる限り生きてその目的をなしとげることだ、それが人間のもっとも人間らしい生きかただ、ひじょうに困難なことだろうがね」【天地静大】水谷郷臣

「覚えていらっしゃい、――小松はきっとあなたを自分のものにします、たとえ死骸にしてでも、きっとあたしのものにしてみせます、ようございますか」【正雪記】小松

「人間の命ほど大事なものはないが、その命は世の中ぜんたいのつながりと切りはなすことはできない、世間の道徳や秩序をふみにじって我欲をとおす者は、おのれでおのれの命を打ち砕くようなものだ」【改定御定法】中所直衛

野の鳥は違う、野山の鳥に餌を呉れる者はない。かれらは他の強敵とたたかいながら、自分で餌を捜し、自分で拾わなくてはならない。そして餌は常にどこにでもあるのではないし、少ない餌を奪いあう場合が多く、まったく餌のないときでも、助けて呉れる者はいないのだ。【ながい坂】

もう一つは、現実の上に立たない生活がどんなに空虚なものかということである。じっさい、人が晩年になってから、自分の生き方は間違っていた、自分にはもっとほかの生き方があったのだ、そう思うくらい悲惨なことはありませんからね、だって是れだけはどうしたってやり直すことができないんですから。【新潮記】

いま益村家の庭は秋のさかりで、別棟になった数寄屋のまわりにある杉林の、黒ずんだ緑のあいだから、若木の楓のみごとに紅葉した枝の覗いているのが、朱を点じたようにあざやかに眺められた。池のまわりにある芒はみな穂をそろえているが、風がまったくないので、その穂はみなひっそりと、秋の午前の陽ざしをあびたまま動くけはいもなかった。【滝口】

戦場に於て最も戒むべきを『ぬけ駆けの功名』とする、一人ぬけ駆けをすれば全軍の統制がみだれるからだ、平時にあってもこれに変りはない、家中全部が同じ心になり互いに協力して奉公すればこそ家も保つが、もしおのおの我執にとらわれ、自分一人主人の気に入ろうとつとめるようになれば、やがては寵の争奪となり、五万石の家は闇となってしまう【粛々十三年】

人間はいつかは死ぬのである、いかなる富も権力も死からのがれることはできない、営々五十年の努力は金殿玉楼を造り権勢と歓楽を与えるかも知れないが、いちど死に遭うやすべてあとかたもなく消え去ってしまう、この世にあって存在のたしかなるものはまさに「死」を措いてほかにないのだ 【荒法師】

「二時間でよ、おめえ」と一人が云った、「それも初めてだっていうだに、三度も幟がおっ立ったなんて考げえられっか」「買収しただな」と他の一人が云った、「女に金轡を嚙ましただ」【青べか物語 砂と柘榴】

お美津は正吉の腕を執って引き寄せた、二人の体がぴったりと触れ合った。――土蔵の中は塵の落ちる音も聞こえそうに静かだった、梅雨明けの湿った空気は、物の古りてゆく甘酸い匂いに染みている。正吉は腕を伝わって感じるお美津の温みに、痺れるような胸のときめきを覚えながら、こくりと唾をのんだ。【お美津簪】

「これではまるで大家のお嬢さまのようでございますわ」「越梅といえば京大坂から江戸まで知られた大家ですよ」もよ女は大きな胸を反らせながら云った、「——養女といえば娘なんですから、大家のお嬢さまに違いないでしょう、でもあたしのように肥ることはありません」【山茶花帖】もよ女

「――死んでしまった人のことなんかどうでもいいではないの。それより生きている者のほうが大事よ」【竹柏記】千寿

「どんなばあいでも、生きることは、死ぬことより楽ではない、まして、いまのおまえは死ぬほうが望ましいだろう、しかし、達弥、おれはおまえに生きていてもらわなければならぬ、単に生きているだけでなく、死ぬよりも困難な、苦しい勤めを受持ってもらいたいのだ」【樅ノ木は残った】原田甲斐

「なに云うの幸さん、今になってそんなことを」「いや云わせて呉んな、おれはおまえが欲しかった、おまえを女房に欲しかったんだ、おまえなしには、生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかったんだ」 【柳橋物語】幸太郎

傾いた陽が斜めからさして、透明な碧色にぼかされた山なみの上に、蔵王の雪が鴇色に輝いていた。朝見たときの青ずんだ銀白の峰は、冷たくきびしい威厳を示すようであったが、いまはもの静かに、やさしく、見る者の心を温めるように思えた。【樅の木は残った】

「......おかよ」と彼は空を見あげながら呟いた、「待っているんだぞ、は......八幡宮のお札が無くとも、りっぱに戦った、矢弾丸を避けるのは神護ではない、戦う心だ、死所を誤らぬ覚悟が矢弾丸に勝ったんだ、おまえがそれを教えて呉れた、待っているんだぞ、もうすぐ会える、帰ったら己は、おまえを……おまえを……」【おかよ】弥次郎

「――うちのにお燗番をさせちゃだめですよ、燗のつくまえに飲んじまいますからね」 すると脇にいた女が、それではおまえさんの燗鍋はいつも温まるひまがないだろう、など云い、きゃあと笑い罵りあった。【雨あがる】

さわはいまでは、周囲から無視されていることが、自分の生れつきだけではなく、自分のほうから人を愛そうとしなかったことにもよるのではないか。焚木を燃やす努力をしないで、物が煮えないとじれるような、自分本位なところがありはしなかったか。そんなふうに、自分を自分の眼で見直してみる、というようになっていた。【榎物語】

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