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「......おかよ」と彼は空を見あげながら呟いた、「待っているんだぞ、は......八幡宮のお札が無くとも、りっぱに戦った、矢弾丸を避けるのは神護ではない、戦う心だ、死所を誤らぬ覚悟が矢弾丸に勝ったんだ、おまえがそれを教えて呉れた、待っているんだぞ、もうすぐ会える、帰ったら己は、おまえを……おまえを……」【おかよ】弥次郎

「――こんどのことは、まったく新しい出発なのだ、まえの年の例などを考えてはいけない、当面の事実だけを処理することだ、これだけはここではっきり云っておく、去年の花は今年の花ではない、それを忘れないでくれ」【ながい坂】

じじじと油皿の鳴る音がして、ついに行燈の火がはたと消えた。部屋は一瞬まっ暗になったが、やがてほのかに薄明のように光がうきだしてきた。窓の障子が、いっぱいの雪明りだった。【山女魚】

罵り憎みあいながら一生ともにくらす夫婦もあり、まるっきり反対な性分だったのに、やがてだらしのないほど仲がよくなり、むつまじく折り合ってゆく夫婦もある。その一つ一つにはまた幾百千とも知れない変化があるだろうし、それらは人間のちから以上の、なにかの力に支配されているのではないか。【醜聞】

躄車に乗って残飯をねだるのも、他人の家のごみ箱をあさるのも、その当人がしているのではなく、生きているいのちに支配されているだけではないか。生命という無形のものが人間を支配して、あのようにみじめなことをしても死に至るまで生きようとさせるのではないだろうか、と冲也は思った。「そこにはもうかれら自身はないのだ」と冲也は独りで呟いた、「——躄車で残飯をねだっているのはいのちだけで、老人そのものはそこにはいない、人間としての老人はもうその肉躰から去って、虚空のどこかをさまよっているんだ」【虚空遍歴】中藤冲也

女はすり寄って、膳の隅にあった布巾を取り、郷臣の濡れた膝を拭こうとした。郷臣はその手を払いのけた。「こぼした酒は乾くが、しみの跡は消えやしない」【天地静大】

「不安を感じたり怯えたりするのも、おれたちが人間であり、生きている証拠だからね」【天地静大】平石頼三郎

子供を産んだことのないお乳は豊かに張りきって大きいし、腹部は臨月の女のように大きく、たぷたぷにくびれて垂れるから、いつもお臍の下のところを晒木綿で縛ってある。お弟子たちはこれを「お師匠さんのおなかの腰揚げ」といっているが、これはおしずの口から出たものであった。【妹の縁談】

さわはいまでは、周囲から無視されていることが、自分の生れつきだけではなく、自分のほうから人を愛そうとしなかったことにもよるのではないか。焚木を燃やす努力をしないで、物が煮えないとじれるような、自分本位なところがありはしなかったか。そんなふうに、自分を自分の眼で見直してみる、というようになっていた。【榎物語】

「よして下さい、そんな、ああ危ない、それだけはどうか、とにかく此処は、あっ」 手を振り、おじぎをし、懇願しながら、右に左に、跳んだり除けたり廻りこんだり、なんともめまぐるしく活躍し、みるみるうちに五人の手から刀を奪い取り、それを両手でひと纒めにして、頭の上へ高くあげながら、「どうか許して下さい、失礼はお詫わびします、このとおりですから、どうかひとまず」などと云い云い逃げまわった。【雨あがる】

お美津は正吉の腕を執って引き寄せた、二人の体がぴったりと触れ合った。――土蔵の中は塵の落ちる音も聞こえそうに静かだった、梅雨明けの湿った空気は、物の古りてゆく甘酸い匂いに染みている。正吉は腕を伝わって感じるお美津の温みに、痺れるような胸のときめきを覚えながら、こくりと唾をのんだ。【お美津簪】

「一期のご合戦に先陣をのぞむのは誰しもおなじことだ、けれども誰かは留守城をあずからねばならぬ。先陣をつるぎの切尖とすれば本城のまもりは五躰といえよう、五躰のちからまったくしてはじめて切尖も充分にはたらくことができるのだ、たとえ先陣、留守の差はあっても、これを死處とする覚悟に二つはないぞ、わかるか信次」【死處】 夏目吉信

人間にとって大切なのは「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にある、来し方を徒労にするかしないかは、今後の彼の生き方が決定するのだ、【日本婦道記 二十三年 新沼靭負】

家を守り立ててゆくということは事務ではなく、歌を詠むのとおなじ創作である。歌は詠み損じても裂き捨てればよいが、生活は決してやり直しができない。在った一日は在ったままで時の碑へ彫りつけられてしまう。創作とすればこんなに意義のある創作はほかにないと思う。【日本婦道記 桃の井戸】

「女房は一生のものだ」と辰造は続けた、「人間の一生はなみかぜが多い、いつなに何が起こるかわからない、なにか事が起こったとき、惚れて貰った女房だと、――男は苦しいおもいをしなければならない、どんなふうにということは云えないが、男は苦しいおもいをするものだ」辰造はちょっと黙って、それからしんみな口ぶりで云った、「女に惚れたら惚れるだけにしろ、いいか、女房はべつに貰うんだ、わかったか」 【水たたき】辰造

これが正しいという信念にとらわれると、眼も耳もそのほうへ偏向し、「正しい」という固執のため逆に、判断がかたよってしまう【ながい坂】

家を守り立ててゆくということは事務ではなく、歌を詠むのとおなじ創作である。歌は詠み損じても裂き捨てればよいが、生活は決してやり直しができない。在った一日は在ったままで時の碑へ彫りつけられてしまう。創作とすればこんなに意義のある創作はほかにないと思う。【日本婦道記 桃の井戸】

「こなたは世間を汚らわしい卑賤なものだと云われる、しかし世間というものはこなた自身から始るのだ、世間がもし汚らわしく卑賎なものなら、その責任の一半はすなわち宗方どのにもある、世間というものが人間の集まりである以上、おのれの責任でないと云える人間は一人もない筈だ、世間の卑賤を挙げるまえに、こなたはまず自分の頭を下げなければなるまい、すべてはそこから始るのだ」【武家草鞋】牧野市蔵

賞に推されたことはまことに光栄でありますが、私はつねづね各社の編集部や読者や批評家諸氏から、過分な「賞」を頂いていることでもあり、そのほかにいかなる賞もないと考えておりますので、ご好意にそむくようですがつつしんで辞退いたします。(「毎日出版文化賞辞退寸言」 1959年)#fedibird

「これはのそのそしちゃいられないわ」 その夜おしずは寝床の中で思わずそう呟いた。「少し頭を働かせなくっちや、ところがこの頭がなかなか云うことをきいてくれないんだから」「ふふふ、ばかねえ」 隣りの寝床でおたかがそう云った。「いま横になったと思ったらもう寝言を云ってるわ」 おしずは口をつぐんだ。そして、じっとしているうちに、本当にそのまますぐ眠ってしまった。【おたふく物語 妹の縁談】

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