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たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間に生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のために少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことが出来るかどうかが問題だと思います、人間はいつかは必ず死にます、いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません、―――そして、死ぬときには、少なくとも惜しまれる人間になるだけの仕事をしてゆきたいと思います【日本婦道記 風鈴】

人間の本性にはいろいろの悪があるけれども、同時に悔恨や慈悲、反省や自制心もある。にもかかわらず、破壊と大量殺人が繰返されるのは、人間の意志が、なにか説明することのできない未知のちからに支配されている、と考えるほかはないのではないか。【おごそかな渇き】

「......おかよ」と彼は空を見あげながら呟いた、「待っているんだぞ、は......八幡宮のお札が無くとも、りっぱに戦った、矢弾丸を避けるのは神護ではない、戦う心だ、死所を誤らぬ覚悟が矢弾丸に勝ったんだ、おまえがそれを教えて呉れた、待っているんだぞ、もうすぐ会える、帰ったら己は、おまえを……おまえを……」【おかよ】弥次郎

「――こんどのことは、まったく新しい出発なのだ、まえの年の例などを考えてはいけない、当面の事実だけを処理することだ、これだけはここではっきり云っておく、去年の花は今年の花ではない、それを忘れないでくれ」【ながい坂】

芸というものは、八方円満、平穏無事、なみかぜ立たずという環境で、育つものではない、あらゆる障害、圧迫、非難、嘲笑をあびせられて、それらを突き抜け、押しやぶり、たたかいながら育つものだ、【虚空遍歴】

「生きることはむずかしい」暫くして、郷臣は囁きのように云った、「人間がいちど自分の目的を持ったら、貧窮にも屈辱にも、どんなに強い迫害にも負けず、生きられる限り生きてその目的をなしとげることだ、それが人間のもっとも人間らしい生きかただ、ひじょうに困難なことだろうがね」【天地静大】水谷郷臣

「たとえ金石で組みあげた墓でも、時が経てばやがては崩れ朽ちてしまう」彼は口の中で、墓のぬしに呼びかけるように、呟いた、「――死んでしまった貴方がたには、法名が付こうと付くまいと、供養されようとされまいと、なんのかかわりもないだろう、そういうことはみな生きている者の慰めだ」【ちくしょう谷】隼人

家庭は妻の鏡にも似ている。誇張していえばこちらの心を去来するそのおりおりの明暗までが、すぐそのまま家庭の上にあらわれるようだ。子供たちはもちろん、家の中の空気までが妻の心の動きについてくる。【日本婦道記 桃の井戸】

かなしいな、と彼は思った。男と女との結びつき、良人となり妻となることもかなしいし、二人のあいだに交わされる昂奮や陶酔や、さめたあとの飽満もかなしい。肌と肌を触れあい、同じ強烈な感覚にひたりながら、しんじつ二人がいっしょになることはないのだ。【虚空遍歴】

――胸いっぱいに溢れてくる烈しい情熱。昼、お徒士町で計らずも浅二郎の真の姿を見た刹那から、堰を切ったように燃えはじめた愛情のほのお。生れて初めて感ずる抵抗し難い欲求に、彼女の体は熱い烈しい悶えに悩んでいるのだった。【入婿十万両】

「——薬草ばかりじゃあねえ、人間だって町でくらせば精分がぬけちまうさ、そうしちゃあいけねえ、こうしちゃあいけねえ、それはだめだあれはだめだって、つまらねえことにがんじ搦めにされて、しょっちゅうあいそ笑いをしたり世辞やおべっかを使ったりして、ろくさま**も立たねえような腰抜けか、きょときょと眼を光らせている小猜いくわせ者になっちまう、町に住んでるやつらはみんなそうだ、みんな鋳型にはめられて、面白くも可笑しくもねえ人間になっちまう、おらあそんなことはまっぴらだ」 【ながい坂】大造

「――死んでしまった人のことなんかどうでもいいではないの。それより生きている者のほうが大事よ」【竹柏記】千寿

「――まじめに砂金を持って交換にいき、帰りに熊にやられて死んだ男は不運か、しかもなかまの二人は騙されたと思って、その男を呪いさえしたっていう、ちげえねえ、慥かにそいつは不運だろう、しかし、それがこのおれとなんのかかわりがある、冗談じゃあねえ、こっちは人間どうしのこった、金持が金の力で、目明しがお上の威光をかさに、なんの咎もねえ者を罪人にし、半殺しのめにあわせたんだぜ、――その男を殺した熊はけだものだが、こっちは現に江戸市中で、大手を振ってのさばってるんだ、あいつらに思い知らせてやらねえうちは、おらあ死んでも死にきれねえんだ」 【さぶ】栄二

ただ繰り返して云うが観ることを忘れぬように、いいか、――自分の勘にたよってはならない、理論や他人の説にたよってもならない、自分の経験にもたよるな、大切なのは現実に観ることだ、自分の眼で、感覚で、そこにあるものを観、そこにあるものをつかむことだ【正雪記】

「──意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛抱、──人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」【樅の木は残った】原田甲斐

「おんなしこったに、たとえおめえらがいって来るにしろ、めんどくせえこたあやっぱりめんどくせえでねえ、おら他人がやるにしろ、めんどくせえこたあでえ嫌えだに」【似而非物語】杢助

踏み削られ、形を変え、しだいに小さくなってゆく。それがここにあるこの岩の、どうにもならない運命だ。どんなにもがいてもその枠からぬけ出ることはできない。人間にも同じような運命からぬけ出ることができず、その存在を認められることもなく、働き疲れたうえ、誰にも知られずに死んでゆく者が少なくないだろう。【おごそかな渇き】

これが正しいという信念にとらわれると、眼も耳もそのほうへ偏向し、「正しい」という固執のため逆に、判断がかたよってしまう【ながい坂】

二人はそこでたびたび逢った。そこの、向うの、こっちから五本めの木蔭がそれだ。おていが先に来ていることもあり、用があって、おくれて来て、すぐに帰ったこともある。その向うの五本めの木蔭だ。おれが仕事の都合でおくれて、駆けつけて来ると、あいつはその木に凭れていて、いってみると泣いていたことがあった。どうしたんだ、と云ったら、とびついて来て、「ああよかった」と云った。ああよかった、もうあんたは来てくれないのかと思ってたのよ、「うれしい」と云って、おれにしがみついた。しがみついて泣いた。いまでもはっきり思いだせる、「うれしい」と云って、あいつはおれにしがみついて泣いた。 【並木河岸】鐡次

「なに云うの幸さん、今になってそんなことを」「いや云わせて呉んな、おれはおまえが欲しかった、おまえを女房に欲しかったんだ、おまえなしには、生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかったんだ」 【柳橋物語】幸太郎

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