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いま益村家の庭は秋のさかりで、別棟になった数寄屋のまわりにある杉林の、黒ずんだ緑のあいだから、若木の楓のみごとに紅葉した枝の覗いているのが、朱を点じたようにあざやかに眺められた。池のまわりにある芒はみな穂をそろえているが、風がまったくないので、その穂はみなひっそりと、秋の午前の陽ざしをあびたまま動くけはいもなかった。【滝口】

「主従とか夫婦、友達という関係は、生きるための方便か単純な習慣にすぎない、それは眼に見えない絆となって人間を縛る、そして多くの人間がその絆を重大であると考えるあまり、自分が縛られていることにも気がつかず、本当は好ましくない生活にも、いやいやひきずられてゆくんだ」 「おれはそんなふうに生きたくはない」【天地静大】水谷郷臣

「妻も子もなく、親しい知人もないのだろう、木賃宿からはこびこまれたのだが、誰もみまいに来た者はないし、彼も黙ってなにも語らない、なにを訊いても答えないし、今日までいちども口をきいたことがないのだ」去定は溜息をついた、「この病気はひじょうな苦痛を伴うものだが、苦しいということさえ口にしなかった、息をひきとるまでおそらくなにも云わぬだろう、――男はこんなふうに死にたいものだ」【赤ひげ診療譚 駈込み訴え】新出去定

「おれだけに限っても、若い血をたぎらせて望んだものが、ほぼそのまま自分のものになった、それにもかかわらず、実感としてはなにもつかんだような気がしない、若いころ待ち望んだ輝かしいもの、栄誉や名声のもつ胸のときめくような感動は、若いころよりもはるかに遠く、手の届かないかなたへ去ってしまったように思える、そういう感じはしないか【燕(つばくろ)】

「本当の親か、本当の子かなんてことはね、誰にもわかりゃしないんだよ」良太郎は仕事に戻りながら、いかにもやわらかに云った、「お互いにこれが自分のとうちゃんだ、これはおれの子だって、しんから底から思えればそれが本当の親子なのさ、もしもこんどまたそんなことを云う者がいたら、おまえたちのほうからきき返してごらん、――おまえはどうなんだって」【季節のない街】

「人を殺しても悪かったと一度も思わぬような奴は、やくざの気風かも知れぬが、人間じゃあない犬畜生だ、犬畜生を親の敵と狙う私じゃあありません──だが、悪い事をしたと後悔して、人らしくなればお父さんの仇、今こそ恨みを晴らさなければなりません、甲府の小父さん──放して下さい」【無頼は討たず】半太郎

「高慢だな、その考えかたは」 「おれは恥じているんだぜ」 「いや高慢だ、自分で自分を裁くのは高慢だ、本当に謙遜な人間なら、他人をも裁きはしないし自分を裁くこともしないだろう、侍がおのれにきびしく謙遜で、人には寛容であれというその考えかたからして、腰に刀を差し四民の上に立つという自意識から出たもので、それ自身がすでに高慢なんだ」【虚空遍歴】生田半二郎

じじじと油皿の鳴る音がして、ついに行燈の火がはたと消えた。部屋は一瞬まっ暗になったが、やがてほのかに薄明のように光がうきだしてきた。 窓の障子が、いっぱいの雪明りだった。【山女魚】

月はかなり西に移ってい、空には雲の動きも見えた。岸の草むらでは虫の鳴く音がしきりに聞え、微風が芦をそよがせると、葉末から露がこぼれ、空気がさわやかな匂いに満たされた。雲が月のおもてにかかると、そのときだけはあたりがほの暗くなるが、雲が去ると、これらの風景ぜんたいが、明るくて青い、水底の中にあるように眺められた。 【青べか物語 芦の中の一夜】

「これはのそのそしちゃいられないわ」 その夜おしずは寝床の中で思わずそう呟いた。「少し頭を働かせなくっちや、ところがこの頭がなかなか云うことをきいてくれないんだから」「ふふふ、ばかねえ」 隣りの寝床でおたかがそう云った。「いま横になったと思ったらもう寝言を云ってるわ」 おしずは口をつぐんだ。そして、じっとしているうちに、本当にそのまますぐ眠ってしまった。【おたふく物語 妹の縁談】

「男なんてものは、いつか毀れちまう車のようなもんです」とおえいは云った、「毀れちゃってから荷物を背負うくらいなら、初めっから自分で背負うほうがましです」【赤ひげ診療譚 氷の下の芽】おえい

法師川は雪解けの水でふくらみ、水際にはびっしりと、みずみずしく芹が伸びていた。朝の陽を浴びた河原は暖かく、猫柳はもう葉になっていた。つぢはあやされるような気分になり、少女のころを思いだしながら、吉松を河原に坐らせて、芹を摘み、蓬を摘んだ。【法師川八景】

「お尻と云うのがなぜ失礼ですか」と女史は冷やかに云った、「わたくしにもお尻はあります、けれどもこれは口にして失礼なようなものではありません、わたくし自分の体に失礼なようなものは一つも持っておりません」「それは、理屈はそうでしょうが」「なにが理屈ですか」と女史は云った、「四肢五体は自然に備わったもので、みなそれぞれ欠くことのできない職分を持っています、頭、手足、腰、乳房、お尻、なにが失礼ですか」【しゅるしゅる】

「ながい苦労に堪えてゆくには」と母はそこへ坐って云った。「ごくあたりまえな、楽な気持でやらなければ続きません。心さえたしかなら、かたちはしぜんのままがいいのです。男になった気持などといっても、女はどこまでも女ですから、娘は娘らしいかたちで明るくやってゆかなければいけません……肩肱を張った暮しはながくは続きませんよ」【髪かざり】

「覚えていらっしゃい、――小松はきっとあなたを自分のものにします、たとえ死骸にしてでも、きっとあたしのものにしてみせます、ようございますか」【正雪記】小松

正しいだけがいつも美しいとはいえない、義であることがつねに善ではない【ながい坂】

「——そのもとにはおちつく場所はない、そのもとに限らず、人間の一生はみなそうだ、ここにいると思ってもじつはそこにはいない、みんな自分のおちつく場所を捜しながら、一生遍歴をしてまわるだけだ」【虚空遍歴】賤ヶ岳の老爺

人間は自然のために翻弄されてきた。恵まれ与えられると同時に、奪われたりふみにじられたりする。自然そのものは云いようもなく荘厳で美しいが、その作用はしばしば恐怖と死をともなう。人間はその作用とたたかい、それを抑制したり、逆用したりすることをくふうしてきた。その幾十か幾百かはものにしたが、どの一つも完全にものにはできなかった。いま降っているこの雨のように、用心していても、しっぺ返しにあうようなことが繰返されるのだ。「自然の容赦のない作用に比べれば」と主水正は声に出して云った、「貧富や権勢や愛憎などという、人間どうしのじたばた騒ぎは、お笑いぐさのようなものかもしれない」

躄車に乗って残飯をねだるのも、他人の家のごみ箱をあさるのも、その当人がしているのではなく、生きているいのちに支配されているだけではないか。生命という無形のものが人間を支配して、あのようにみじめなことをしても死に至るまで生きようとさせるのではないだろうか、と冲也は思った。 「そこにはもうかれら自身はないのだ」と冲也は独りで呟いた、「——躄車で残飯をねだっているのはいのちだけで、老人そのものはそこにはいない、人間としての老人はもうその肉躰から去って、虚空のどこかをさまよっているんだ」【虚空遍歴】中藤冲也

「あたしのことを本当に心配し、あたしのために本気で泣いて呉れたのは、この世の中で直さんたったひとりよ、──眼が見えなくなってから、初めてそれがわかったの、なんにも見えないまっ暗ななかで、じっと坐って考がえているうちに、だんだんそれがはっきりしてきたわ、……眼の見えるうちは気もつかないようなことが、見えなくなってからはよくわかるの、──あのひとを良人に選んだのは眼が見えたからよ、見えない今は声だけでわかるの、……なにもかもよ、直さん」【むかし今も】おまき

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