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松はぐらぐらと頭を垂れ、右手には湯呑を持ったまま、台板へ俯伏してしまった。「へえ、まっぴらだよ、なにょウぬかしゃアがる、けつでもくらえだ、……べらぼうめ、女がなんだ、嬶がなんだッてんで」【嘘アつかねえ】

かなしいな、と彼は思った。男と女との結びつき、良人となり妻となることもかなしいし、二人のあいだに交わされる昂奮や陶酔や、さめたあとの飽満もかなしい。肌と肌を触れあい、同じ強烈な感覚にひたりながら、しんじつ二人がいっしょになることはないのだ。【虚空遍歴】

悠二郎は父が案外な手ぬかりをしているのを発見した。それはなにかというと、父は大事にするあまり、金魚どもの鰭や尾が伸びすぎているのに気がつかない、だからそいつらは鰭や尾が邪魔になって、満足に泳ぐことができないのである。――まるで赤ん坊が振袖でも着たように、躯をくねくねさせ、のたのたした草臥れたような恰好で、重たそうにやっとこさ泳ぐのである。悠二郎はそいつらが可哀そうになった。そこで鋏を持って来て、一尾ずつ捉まえて、その伸びすぎた鰭や尾をちょうどいいくらいに切ってやった。――そうして七尾めを切ってやっていたとき、団栗まなこの黒板権兵衛にみつかったのである【桑の木物語】

「――災難と思って諦めるか」彼は口の中で呟いた。「――弱い人間の合い言葉だ」と彼はまた眉をしかめた、「それだから弱い人間はいつも弱いままで置かれるんだ」 【正雪記】与四郎

いざという時にはこうと思いながら、その『いざ』がここだとみきわめることができないで、ついすると平常の覚悟をみうしなってしまいます。心のもちかたほど大切なものはないと、こんどこそ身にしみて悟りました 【日本婦道記 郷土】りう

「おれだけに限っても、若い血をたぎらせて望んだものが、ほぼそのまま自分のものになった、それにもかかわらず、実感としてはなにもつかんだような気がしない、若いころ待ち望んだ輝かしいもの、栄誉や名声のもつ胸のときめくような感動は、若いころよりもはるかに遠く、手の届かないかなたへ去ってしまったように思える、そういう感じはしないか【燕(つばくろ)】

「人間が自分から好んですることには罪はないんだ、自分がそうしたくてすることは、その人間にとってはすべて善なんだ。反対に望みもしないことを望むようにみせたり、自分で信じないことを信じているようによそおうことこそ、罪であり悪というんだ」【栄花物語】信二郎

「そんなにふくれるでねえよ、二郎さん」彼女たちはこんなふうに云う。「顔なんぞふくれたってなんの使いみちもありゃしねえだ、どうせふくらかすだらもっと使いみちのあるところにするがいいだよ」【似而非物語】

「わたくしいつもあなたが欲しかったんです、あなたのぜんぶを、残らず、いつも自分のものにしておきたかったんです」と律が云った、「それなのにあなたは、いつもわたくしから遠いところにいらっしゃる、寝屋をともにして、からだは手で触れているのに、あなた御自身はそこにいない、からだがそこにあるだけで、あなたはいつもいないんです、わたくしは本当のあなたという方に、いちども触れたことがありませんでした」 【樅の木は残った】律

「これではまるで大家のお嬢さまのようでございますわ」 「越梅といえば京大坂から江戸まで知られた大家ですよ」もよ女は大きな胸を反らせながら云った、「——養女といえば娘なんですから、大家のお嬢さまに違いないでしょう、でもあたしのように肥ることはありません」【山茶花帖】もよ女

およそ此の道を学ぶ者にとっては、天地の間、有ゆるものが師である、一木一草と雖ども無用に存在するものではない、先人は水面に映る月影を見て道を悟ったとも云う、この謙虚な、撓まざる追求の心が無くては、百年の修業も終りを完うすることはできない。虎之助は毎もその言葉を忘れなかった【内蔵允留守】

女房が稼げば男はだめになるなんて、それは男が稼いで女を養ってやる、っていう思いあがった考えよ、亭主が仕事にあぶれたとき、女房が稼いでどうして悪いの、男だって女だっておんなじ人間じゃないの、この世で男だけがえらいわけじゃないのよ 【さぶ】おのぶ

「人間というものは」と宗岳も茶碗を取りながら云った、「自分でこれが正しい、と思うことを固執するときには、その眼が狂い耳も聞えなくなるものだ、なぜなら、或る信念にとらわれると、その心にも偏向が生じるからだ」【ながい坂】

女はすり寄って、膳の隅にあった布巾を取り、郷臣の濡れた膝を拭こうとした。郷臣はその手を払いのけた。「こぼした酒は乾くが、しみの跡は消えやしない」【天地静大】

彼は山を眺め、空を見あげ、それから利根川の流れを見た。空は薄く絹を張ったような青で、ところどころに白く、ゆっくりと断雲が動いていた。川の水は澄みとおって、汀に近いところは底の小石が透いて見える。——対岸の河原も枯れた芦の茂みがひろがり、土堤の上を一人の農婦が、馬に荷車を曳かせて、川上のほうへ歩いていた。【天地静大】

「おんなしこったに、たとえおめえらがいって来るにしろ、めんどくせえこたあやっぱりめんどくせえでねえ、おら他人がやるにしろ、めんどくせえこたあでえ嫌えだに」【似而非物語】杢助

人間はみな、自分では気づかずに、蒙昧と無知を繰り返しているものです、もちろんわれわれだってそのなかまに漏れはしないと思いますね【栄花物語】

踏み削られ、形を変え、しだいに小さくなってゆく。それがここにあるこの岩の、どうにもならない運命だ。どんなにもがいてもその枠からぬけ出ることはできない。人間にも同じような運命からぬけ出ることができず、その存在を認められることもなく、働き疲れたうえ、誰にも知られずに死んでゆく者が少なくないだろう。【おごそかな渇き】

「権力による政治がもし人間を不当に殺すなら、そういう政治は打ち毀さなくてはならない、不正な政治の下では学問だって満足に成長しやあしない、おれたちはそれに眼を塞いでいるぞ」【天地静大】 川上和助

政治と一般庶民とのつながりは、征服者と被征服者との関係から、離れることはできない。政治は必ず庶民を使役し、庶民から奪い、庶民に服従を強要する。いかなる時代、いかなる国、いかなる人物によっても、政治はつねにそういったものである。【山彦乙女】

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