ひきこもり碁石。ちいさな生活圏で生きている。SNS長期利用しているだけの初心者。ああでもなく、こうでもなく、投稿したい。メインはFedibird。こちらは特にどうでもいい投稿を気ままにする予定。
水平的多様化が重要。
教育、垂直的序列化と水平的画一化。
だ、である。です、ます。文体いろいろ。縛りはないのだ。混成してもいいのです。
映える写真を撮ろう、シェアする写真を撮ろうと思っていなくても、頭の中でそのことを考えてしまうのが好きではないです。ただ自然に心を動かされて写真を撮りたいし景色を見たいのです。順番が逆になってはだめなのです。
写真はスマホで撮ったは撮ったのだが、肉眼で見た光景に到底及ばないと撮った直後ははっきり思った。切り取ることはできないなと。しかし、少し時間がたってその場所から離れて写真を見返したら綺麗にとれてると思ってしまったのだ。何故か。それは肉眼で見た感動をそのまま保持することがとてつもなく難しいことだという証明だろう。目に焼き付けるということは容易ではないのだ。
スマホも携帯電話もなかった1990年代の日常を思い出したい。そしてその頃僕はまだ子どもだったけれど、人々が自分の生活のことと社会のこととを日々の生活の中でどう考えていたのか知りたい。情報が少なかった頃がもう思い出すのが難しくなっているから。
人には相性というものがあって、どうにも苦手な人に接客されて、しかも上手くコミュニケーションができなかったりすると、こちらが悪いとは思わないにしてもなぜか気分が沈む。なるべく会わないようにできたらいいのだが……。
腰がよくないと背中や肩にまで余計な力が入ってきて座ってるのがつらくなってくる。
平凡きわまる底辺への競争
コンテクスト崩壊が「誰もが読者になる可能性を考えて、ユーザーがツイートの内容をあたりさわりのないものにとどめておく、シェアにかんする最小公分母の哲学」をもたらしている。ジェニー・オデル『何もしない』P.310
SNSで僕が意見を書けないのはほぼこれと言っていい。誰に読まれるかわからないし、どう読まれるかもわからない。文脈がない状態で読まれるといくらでも解釈をねじ曲げることができるだろうということ。でも、意見は言わねばならないときがあるだろうとも思っている。
市川沙央と島田雅彦の文藝春秋での対談を読んだ。愚行権について考えさせられたな。あと怒りを買うことについても。
この社会は余剰の過剰に苦しんでいる(だけ)なのだから、すなおに職そして/あるいは金を分ければよい。立岩真也『不如意の身体』P.392
できる/できないに関わりなく生活ができるようにするとよい。立岩真也『不如意の身体』P.391
まずどんなことであれ人並みのことは実現されるべきだという立場に立つのがよいのではないか。立岩真也『不如意の身体』P.270
やっぱり人並みのことを僕も要求していけるといいなと思った。人並みのことをできなくなったが故に、違う道を行くしかないと思ってしまうところが大いにあるから。
帰ろう。
ケアについて。無償のケアは必ず行き詰まると思う。ケアをするされる双方に対等の関係を作るため、社会でシステム化する必要がある。無償の愛や家族の力で乗り越えていけるようなものではない。
グレーゾーンでどれだけ曖昧に物事と接していられるかという事。我慢強さと体力がいるのだ。
好悪の感情があって、悪い感情が乱れて極まると誹謗中傷になり、好い感情が乱れて極まると盲信になると思っている。
誰もが自由に生きられるために再分配を考えなければならない。
ネオリベ的価値観をぶち壊さなければならない。
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