腰がよくないと背中や肩にまで余計な力が入ってきて座ってるのがつらくなってくる。

コンテクスト崩壊が「誰もが読者になる可能性を考えて、ユーザーがツイートの内容をあたりさわりのないものにとどめておく、シェアにかんする最小公分母の哲学」をもたらしている。ジェニー・オデル『何もしない』P.310

SNSで僕が意見を書けないのはほぼこれと言っていい。誰に読まれるかわからないし、どう読まれるかもわからない。文脈がない状態で読まれるといくらでも解釈をねじ曲げることができるだろうということ。でも、意見は言わねばならないときがあるだろうとも思っている。

市川沙央と島田雅彦の文藝春秋での対談を読んだ。愚行権について考えさせられたな。あと怒りを買うことについても。

この社会は余剰の過剰に苦しんでいる(だけ)なのだから、すなおに職そして/あるいは金を分ければよい。立岩真也『不如意の身体』P.392

できる/できないに関わりなく生活ができるようにするとよい。立岩真也『不如意の身体』P.391

まずどんなことであれ人並みのことは実現されるべきだという立場に立つのがよいのではないか。立岩真也『不如意の身体』P.270

やっぱり人並みのことを僕も要求していけるといいなと思った。人並みのことをできなくなったが故に、違う道を行くしかないと思ってしまうところが大いにあるから。

ケアについて。無償のケアは必ず行き詰まると思う。ケアをするされる双方に対等の関係を作るため、社会でシステム化する必要がある。無償の愛や家族の力で乗り越えていけるようなものではない。

グレーゾーンでどれだけ曖昧に物事と接していられるかという事。我慢強さと体力がいるのだ。

好悪の感情があって、悪い感情が乱れて極まると誹謗中傷になり、好い感情が乱れて極まると盲信になると思っている。

誰もが自由に生きられるために再分配を考えなければならない。

ネオリベ的価値観をぶち壊さなければならない。

怒りがある。社会に対する怒りがある。怒りをどう表現するか。このとめどもない怒りを。

Fediverseの中に漂うひとつの船として改めて活動していこうと思った。

FedibirdもSNSだから人間関係いろいろとあるのね。

子どもの頃、幼稚園から小学生時代の頃、家の台所のテーブルの下に潜るのが好きだったな。
貴戸理恵さんの本に書いてあって僕も好きだったことを思い出した。
後ろに観葉植物のパキラが置いてあったあの台所。今は引っ越してしまったあの場所。

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