人間のしたことは善悪にかかわらず、たいていいつかはあらわれるものだ、世の中のことはながい眼で見ていると、ふしぎなくらい公平に配分が保たれてゆくようだ 【ちくしょう谷】隼人

罵り憎みあいながら一生ともにくらす夫婦もあり、まるっきり反対な性分だったのに、やがてだらしのないほど仲がよくなり、むつまじく折り合ってゆく夫婦もある。その一つ一つにはまた幾百千とも知れない変化があるだろうし、それらは人間のちから以上の、なにかの力に支配されているのではないか。【醜聞】

人間のしたことは善悪にかかわらず、たいていいつかはあらわれるものだ、世の中のことはながい眼で見ていると、ふしぎなくらい公平に配分が保たれてゆくようだ 【ちくしょう谷】隼人

きみはゆうべうなされてたか、と塾生に質問した。八田青年はこんどは狼狽の色もみせず、静かに先生に向って首を振った。「すると夢かな」と先生は呟いた、「なんだかそのう、苦しそうに唸うなるんだな、ほそうい声で唸るんだ」「猫ですよきっと」「いやそうじゃない、きずげになりそだって云うのを聞いたよ、いや猫じゃないな、あれは【季節のない街】

「なに云うの幸さん、今になってそんなことを」 「いや云わせて呉んな、おれはおまえが欲しかった、おまえを女房に欲しかったんだ、おまえなしには、生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかったんだ」 【柳橋物語】幸太郎

「初めはほんとにそうだったの、正直に云うけれど、初めのころはあの人を見ると、ここんところに」おりうは下腹部へ手をやった、「ここんところの奥のほうに、ちょうど手を握ったくらいの大きさのものができて、それが生き物のようにぐうっと動くのよ」 【滝口】おりう

「妻も子もなく、親しい知人もないのだろう、木賃宿からはこびこまれたのだが、誰もみまいに来た者はないし、彼も黙ってなにも語らない、なにを訊いても答えないし、今日までいちども口をきいたことがないのだ」去定は溜息をついた、「この病気はひじょうな苦痛を伴うものだが、苦しいということさえ口にしなかった、息をひきとるまでおそらくなにも云わぬだろう、――男はこんなふうに死にたいものだ」【赤ひげ診療譚 駈込み訴え】新出去定

「悪人と善人とに分けることができれば、そして或る人間たちのすることが、善であるか悪意から出たものであるかはっきりすれば、それに対処することはさしてむずかしくはない、だが人間は善と悪を同時に持っているものだ、善意だけの人間もないし、悪意だけの人間もない、人間は不道徳なことも考えると同時に神聖なことも考えることができる、そこにむずかしさとたのもしさがあるんだ」【ながい坂】三浦主水正

職人としてもまだいちにんめえにはなっちゃいねえ、――さぶ、おめえの気持はよくわかるが、おれたちにいま大事なのは自分のことだ、ここ二、三年でおれたちの一生がきまるんだ、 【さぶ】栄二

ひとから物を借りればいつかは礼を付け返さなければならない。返せない借物なら、それに代るだけの事をするのが人間の義理である。世の中に生きて、眼に見えない多くの人たちの恩恵を受けるからには、自分も世の中に対してなにかを返さなければならないだろう、自分はそれをしたであろうか。【新潮記】

月はかなり西に移ってい、空には雲の動きも見えた。岸の草むらでは虫の鳴く音がしきりに聞え、微風が芦をそよがせると、葉末から露がこぼれ、空気がさわやかな匂いに満たされた。雲が月のおもてにかかると、そのときだけはあたりがほの暗くなるが、雲が去ると、これらの風景ぜんたいが、明るくて青い、水底の中にあるように眺められた。 【青べか物語 芦の中の一夜】

いざという時にはこうと思いながら、その『いざ』がここだとみきわめることができないで、ついすると平常の覚悟をみうしなってしまいます。心のもちかたほど大切なものはないと、こんどこそ身にしみて悟りました 【日本婦道記 郷土】りう

おせいは来なかった。押しかけては来なかったが、職人が飲みにいったら、酔っぱらってさんざんに毒づいたそうである。あんなやつは男ではないから始まって、江戸の人間ぜんたいを泥まみれにし、粉ごなにし、「土足で踏みにじるようなあんばいだった」ということであった。【赤ひげ診療譚 三度目の正直】

躄車に乗って残飯をねだるのも、他人の家のごみ箱をあさるのも、その当人がしているのではなく、生きているいのちに支配されているだけではないか。生命という無形のものが人間を支配して、あのようにみじめなことをしても死に至るまで生きようとさせるのではないだろうか、と冲也は思った。 「そこにはもうかれら自身はないのだ」と冲也は独りで呟いた、「——躄車で残飯をねだっているのはいのちだけで、老人そのものはそこにはいない、人間としての老人はもうその肉躰から去って、虚空のどこかをさまよっているんだ」【虚空遍歴】中藤冲也

もっと人間らしく、生きることを大事にし、栄華や名声とはかかわりなく、三十年、五十年をかけて、こつこつと金石を彫るような、じみな努力をするようにならないものか、散り際をきれいに、などという考えを踵にくっつけている限り、決して仕事らしい仕事はできないんだがな【天地静大】水谷郷臣

──自分だけの幸福は幸福ではない。夏子はそう信じていた。──大多数の人間が不幸であるとき、自分だけが仕合せだということは、悪徳であり寧ろその大多数よりも遥かに不幸である。【火の杯】

忘れないぜ、みんな、と栄二は心の中で叫んだ。おれは片意地で、ぶあいそうで、誰のために気をつかったこともなく、誰一人よせつけもしなかった。 おれは自分だけのことしか考えなかったのに、みんなはおれのために、日ごろは仲のよくない者までが力を合わせて、おれを助け出すためけんめいになってくれた。 ――みんなの声は生涯、忘れないぞ、と栄二は声には出さずに叫んだ。まるで自分のきょうだいか子でもあるように、みんないっしょうけんめいだった。与平さんは泣いてくれたっけ、岡安さんもそうだ、これまでひねくれどおしだったこのおれは、さぞいまいましく憎ったらしいやつだったろう、だがやっぱりとんで来てくれた、――そうだ、それからさぶもだ。 【さぶ】栄二

「そんなにふくれるでねえよ、二郎さん」彼女たちはこんなふうに云う。「顔なんぞふくれたってなんの使いみちもありゃしねえだ、どうせふくらかすだらもっと使いみちのあるところにするがいいだよ」【似而非物語】

「——薬草ばかりじゃあねえ、人間だって町でくらせば精分がぬけちまうさ、そうしちゃあいけねえ、こうしちゃあいけねえ、それはだめだあれはだめだって、つまらねえことにがんじ搦めにされて、しょっちゅうあいそ笑いをしたり世辞やおべっかを使ったりして、ろくさま**も立たねえような腰抜けか、きょときょと眼を光らせている小猜いくわせ者になっちまう、町に住んでるやつらはみんなそうだ、みんな鋳型にはめられて、面白くも可笑しくもねえ人間になっちまう、おらあそんなことはまっぴらだ」 【ながい坂】大造

女はすり寄って、膳の隅にあった布巾を取り、郷臣の濡れた膝を拭こうとした。郷臣はその手を払いのけた。「こぼした酒は乾くが、しみの跡は消えやしない」【天地静大】

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