ただ繰り返して云うが観ることを忘れぬように、いいか、――自分の勘にたよってはならない、理論や他人の説にたよってもならない、自分の経験にもたよるな、大切なのは現実に観ることだ、自分の眼で、感覚で、そこにあるものを観、そこにあるものをつかむことだ【正雪記】

たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間に生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のために少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことが出来るかどうかが問題だと思います、人間はいつかは必ず死にます、いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません、―――そして、死ぬときには、少なくとも惜しまれる人間になるだけの仕事をしてゆきたいと思います【日本婦道記 風鈴】

「——そのもとにはおちつく場所はない、そのもとに限らず、人間の一生はみなそうだ、ここにいると思ってもじつはそこにはいない、みんな自分のおちつく場所を捜しながら、一生遍歴をしてまわるだけだ」【虚空遍歴】賤ヶ岳の老爺

もっと人間らしく、生きることを大事にし、栄華や名声とはかかわりなく、三十年、五十年をかけて、こつこつと金石を彫るような、じみな努力をするようにならないものか、散り際をきれいに、などという考えを踵にくっつけている限り、決して仕事らしい仕事はできないんだがな【天地静大】水谷郷臣

かなしいな、と彼は思った。男と女との結びつき、良人となり妻となることもかなしいし、二人のあいだに交わされる昂奮や陶酔や、さめたあとの飽満もかなしい。肌と肌を触れあい、同じ強烈な感覚にひたりながら、しんじつ二人がいっしょになることはないのだ。【虚空遍歴】

子供を産んだことのないお乳は豊かに張りきって大きいし、腹部は臨月の女のように大きく、たぷたぷにくびれて垂れるから、いつもお臍の下のところを晒木綿で縛ってある。お弟子たちはこれを「お師匠さんのおなかの腰揚げ」といっているが、これはおしずの口から出たものであった。【妹の縁談】

人間は独りで生きているのではない、多くの者が寄集まって、互いに支え合い援け合っているのだ、——おまえは着物を着、帯を締めているが、それは自分で織ったのではなかろう、畳の上に坐っているがその畳も自分で作ったものではない、家は大工が建て、壁は左官が塗った、百姓の作った米、漁師の獲った魚を食べている、紙も筆も箸も茶碗もすべて他人の労力に依るものだ、おまえにとっては見も知らぬこれらの他人が、このようにおまえの生活を支えている、わかるか【山茶花帖】桑島儀兵衛

職人としてもまだいちにんめえにはなっちゃいねえ、――さぶ、おめえの気持はよくわかるが、おれたちにいま大事なのは自分のことだ、ここ二、三年でおれたちの一生がきまるんだ、 【さぶ】栄二

「女房は一生のものだ」と辰造は続けた、「人間の一生はなみかぜが多い、いつなに何が起こるかわからない、なにか事が起こったとき、惚れて貰った女房だと、――男は苦しいおもいをしなければならない、どんなふうにということは云えないが、男は苦しいおもいをするものだ」辰造はちょっと黙って、それからしんみな口ぶりで云った、「女に惚れたら惚れるだけにしろ、いいか、女房はべつに貰うんだ、わかったか」 【水たたき】辰造

その声はやわらかにやさしく、蜜をたっぷり掛けたプディングのように甘ったるいひびきをもっているが、言葉と言葉のあいまに、ぴしり、ぴしりと凄いような音の伴奏が聞える。近所のかみさんたちの話では、お尻を裸にして、物差で打つのだという。蜜をたっぷり掛けたプディングのような甘やかな声と、骨まで凍るような折檻の音とは、そのまますさまじい和音となって、聞く者の耳を突き刺すのであった。【季節のない街】

おれはここで寝起きしながら、ぼて振りをし、夜泣きうどん屋をした、おれはここからぬけだすが、一生このようにして生きてゆく人たち、一生このような生活からぬけだすことのできない人たちが無数にいるのだ、ここには動かしようのない事実がある、おれは生涯この事実を忘れないぞ【ながい坂】三浦主水正

おれは小三郎の昔から独りだった、いまも独りだしこれからも独りだ、なにかするには男はいつも独りでなければならない【ながい坂】三浦主水正

野の鳥は違う、野山の鳥に餌を呉れる者はない。かれらは他の強敵とたたかいながら、自分で餌を捜し、自分で拾わなくてはならない。そして餌は常にどこにでもあるのではないし、少ない餌を奪いあう場合が多く、まったく餌のないときでも、助けて呉れる者はいないのだ。【ながい坂】

人間が生れてくるということはそれだけで壮厳だ。しかしもしその生涯が真実から踏み外れたものなら、その生命は三文の価値もない、狡猾や欺瞞はその時をごまかすことはできても、百年歴史の眼をもってすれば狐の化けたほどにも見えはしないぞ。【夜明けの辻】功刀伊兵衛

人間はみな、自分では気づかずに、蒙昧と無知を繰り返しているものです、もちろんわれわれだってそのなかまに漏れはしないと思いますね【栄花物語】

もう一つは、現実の上に立たない生活がどんなに空虚なものかということである。じっさい、人が晩年になってから、自分の生き方は間違っていた、自分にはもっとほかの生き方があったのだ、そう思うくらい悲惨なことはありませんからね、だって是れだけはどうしたってやり直すことができないんですから。【新潮記】

戦場に於て最も戒むべきを『ぬけ駆けの功名』とする、一人ぬけ駆けをすれば全軍の統制がみだれるからだ、平時にあってもこれに変りはない、家中全部が同じ心になり互いに協力して奉公すればこそ家も保つが、もしおのおの我執にとらわれ、自分一人主人の気に入ろうとつとめるようになれば、やがては寵の争奪となり、五万石の家は闇となってしまう【粛々十三年】

踏み削られ、形を変え、しだいに小さくなってゆく。それがここにあるこの岩の、どうにもならない運命だ。どんなにもがいてもその枠からぬけ出ることはできない。人間にも同じような運命からぬけ出ることができず、その存在を認められることもなく、働き疲れたうえ、誰にも知られずに死んでゆく者が少なくないだろう。【おごそかな渇き】

――おれは間違って生れた。と甲斐は心のなかで呟いた。けものを狩り、樹を伐り、雪にうもれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする。そして欲しくなれば、ふじこやなをこのような娘たちを掠って、藁堆や馬草の中で思うままに寝る。それがおれの望みだ、四千余石の館も要らない。伊達藩宿老の家格も要らない、自分には弓と手斧と山刀と、寝袋があれば充分だ。――それがいちばんおれに似あっている。【樅の木は残った】

「お尻と云うのがなぜ失礼ですか」と女史は冷やかに云った、「わたくしにもお尻はあります、けれどもこれは口にして失礼なようなものではありません、わたくし自分の体に失礼なようなものは一つも持っておりません」「それは、理屈はそうでしょうが」「なにが理屈ですか」と女史は云った、「四肢五体は自然に備わったもので、みなそれぞれ欠くことのできない職分を持っています、頭、手足、腰、乳房、お尻、なにが失礼ですか」【しゅるしゅる】

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