新しいものを表示

「悪人と善人とに分けることができれば、そして或る人間たちのすることが、善であるか悪意から出たものであるかはっきりすれば、それに対処することはさしてむずかしくはない、だが人間は善と悪を同時に持っているものだ、善意だけの人間もないし、悪意だけの人間もない、人間は不道徳なことも考えると同時に神聖なことも考えることができる、そこにむずかしさとたのもしさがあるんだ」【ながい坂】三浦主水正

「なに云うの幸さん、今になってそんなことを」「いや云わせて呉んな、おれはおまえが欲しかった、おまえを女房に欲しかったんだ、おまえなしには、生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかったんだ」 【柳橋物語】幸太郎

「ながい苦労に堪えてゆくには」と母はそこへ坐って云った。「ごくあたりまえな、楽な気持でやらなければ続きません。心さえたしかなら、かたちはしぜんのままがいいのです。男になった気持などといっても、女はどこまでも女ですから、娘は娘らしいかたちで明るくやってゆかなければいけません……肩肱を張った暮しはながくは続きませんよ」【髪かざり】

戦場に於て最も戒むべきを『ぬけ駆けの功名』とする、一人ぬけ駆けをすれば全軍の統制がみだれるからだ、平時にあってもこれに変りはない、家中全部が同じ心になり互いに協力して奉公すればこそ家も保つが、もしおのおの我執にとらわれ、自分一人主人の気に入ろうとつとめるようになれば、やがては寵の争奪となり、五万石の家は闇となってしまう【粛々十三年】

「あたしのことを本当に心配し、あたしのために本気で泣いて呉れたのは、この世の中で直さんたったひとりよ、──眼が見えなくなってから、初めてそれがわかったの、なんにも見えないまっ暗ななかで、じっと坐って考がえているうちに、だんだんそれがはっきりしてきたわ、……眼の見えるうちは気もつかないようなことが、見えなくなってからはよくわかるの、──あのひとを良人に選んだのは眼が見えたからよ、見えない今は声だけでわかるの、……なにもかもよ、直さん」【むかし今も】おまき

「――死んでしまった人のことなんかどうでもいいではないの。それより生きている者のほうが大事よ」【竹柏記】千寿

「女房は一生のものだ」と辰造は続けた、「人間の一生はなみかぜが多い、いつなに何が起こるかわからない、なにか事が起こったとき、惚れて貰った女房だと、――男は苦しいおもいをしなければならない、どんなふうにということは云えないが、男は苦しいおもいをするものだ」辰造はちょっと黙って、それからしんみな口ぶりで云った、「女に惚れたら惚れるだけにしろ、いいか、女房はべつに貰うんだ、わかったか」 【水たたき】辰造

「……相手を斬ればおまえも切腹をしなければならぬ、勝っても負けても、今日おまえは生きてはいられなかったのだ、繰り返して云うが、武士には御奉公のほかに捨てるべき命はないものだぞ」 【ならぬ堪忍】 上森又十郎

「......おかよ」と彼は空を見あげながら呟いた、「待っているんだぞ、は......八幡宮のお札が無くとも、りっぱに戦った、矢弾丸を避けるのは神護ではない、戦う心だ、死所を誤らぬ覚悟が矢弾丸に勝ったんだ、おまえがそれを教えて呉れた、待っているんだぞ、もうすぐ会える、帰ったら己は、おまえを……おまえを……」【おかよ】弥次郎

「人間が食う心配に追われだしたらおしめえだ、食うってことは毎日だし、生きてる限り食わなくちゃならねえ、そんなことに追われていて男が一生の仕事ができるもんか、おらあそんな心配をしたことあ、一遍もありゃあしねえ」【正雪記】又兵衛

傾いた陽が斜めからさして、透明な碧色にぼかされた山なみの上に、蔵王の雪が鴇色に輝いていた。朝見たときの青ずんだ銀白の峰は、冷たくきびしい威厳を示すようであったが、いまはもの静かに、やさしく、見る者の心を温めるように思えた。【樅の木は残った】

――胸いっぱいに溢れてくる烈しい情熱。昼、お徒士町で計らずも浅二郎の真の姿を見た刹那から、堰を切ったように燃えはじめた愛情のほのお。生れて初めて感ずる抵抗し難い欲求に、彼女の体は熱い烈しい悶えに悩んでいるのだった。【入婿十万両】

子供を産んだことのないお乳は豊かに張りきって大きいし、腹部は臨月の女のように大きく、たぷたぷにくびれて垂れるから、いつもお臍の下のところを晒木綿で縛ってある。お弟子たちはこれを「お師匠さんのおなかの腰揚げ」といっているが、これはおしずの口から出たものであった。【妹の縁談】

人間はみな、自分では気づかずに、蒙昧と無知を繰り返しているものです、もちろんわれわれだってそのなかまに漏れはしないと思いますね【栄花物語】

「おれだけに限っても、若い血をたぎらせて望んだものが、ほぼそのまま自分のものになった、それにもかかわらず、実感としてはなにもつかんだような気がしない、若いころ待ち望んだ輝かしいもの、栄誉や名声のもつ胸のときめくような感動は、若いころよりもはるかに遠く、手の届かないかなたへ去ってしまったように思える、そういう感じはしないか【燕(つばくろ)】

一つ一つ、桑の木に手を触れながら、三十八本まで数え終ると、もはやがまんが切れ、そこへ棒立ちになって面を掩おおった。「おれのと、おまえのと、毎年二本ずつ、あれからずっと、欠かさず植えてきた」「――――」「夏になって、実が生ると、おれは独りで此処へ来て、おまえに呼びかけながら、この実を摘んで喰べた――この実で酒を醸して、おまえに呼びかけながら、更けた寝所で独りそっと飲む癖もついた、おまえはいつもおれの側にいたのだ、わかるか、悠二郎【桑の木物語】正篤

およそ此の道を学ぶ者にとっては、天地の間、有ゆるものが師である、一木一草と雖ども無用に存在するものではない、先人は水面に映る月影を見て道を悟ったとも云う、この謙虚な、撓まざる追求の心が無くては、百年の修業も終りを完うすることはできない。虎之助は毎もその言葉を忘れなかった【内蔵允留守】

「にっぽんかいびゃく以来、あんなお人好しのおたんこなすは見たこともねえ」と男たちは云った、「おれっちがかいびゃくこのかた生きて来たわけじゃねえにしろさ」【季節のない街】

傾いた陽が斜めからさして、透明な碧色にぼかされた山なみの上に、蔵王の雪が鴇色に輝いていた。朝見たときの青ずんだ銀白の峰は、冷たくきびしい威厳を示すようであったが、いまはもの静かに、やさしく、見る者の心を温めるように思えた。【樅の木は残った】

「眼先の事ですぐによろこんだり、絶望して身を滅ぼしたりする例は貧しい人間に多い、恒産なければ恒心なしといって、根の浅い生活をしていると、思惑の外れた場合などすぐ極端から極端にはしってしまい、結局、力のある者の腹を肥やすだけだ」【赤ひげ診療譚 おくめ殺し】 新出去定

古いものを表示
Nightly Fedibird

Fedibirdの最新機能を体験できる https://fedibird.com の姉妹サーバです