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よくつきつめてみると、人間ってものはみんな、自分のゆく道を捜して、一生迷いあるく迷子なんじゃないだろうか【へちまの木】

「――うちのにお燗番をさせちゃだめですよ、燗のつくまえに飲んじまいますからね」 すると脇にいた女が、それではおまえさんの燗鍋はいつも温まるひまがないだろう、など云い、きゃあと笑い罵りあった。【雨あがる】

保之助は酒を飲もうとした。しかしもう徳利は二つとも空であった。彼は唇を嚙んで頭を振った。額にどす黒い皺がより、こめかみに太く血管があらわれた。肉躰的な苦痛が、いまは一種の快感に変るようであった。化膿した歯齦を強く押すときの、むず痒い痛みに似た快感であった。【天地静大】

「眼先の事ですぐによろこんだり、絶望して身を滅ぼしたりする例は貧しい人間に多い、恒産なければ恒心なしといって、根の浅い生活をしていると、思惑の外れた場合などすぐ極端から極端にはしってしまい、結局、力のある者の腹を肥やすだけだ」【赤ひげ診療譚 おくめ殺し】 新出去定

「医術などといってもなさけないものだ、長い年月やっていればいるほど、医術がなさけないものだということを感ずるばかりだ、病気が起こると、或る個躰はそれを克服し、べつの個躰は負けて倒れる、医者はその症状と経過を認めることができるし、生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる、だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃあしない」【赤ひげ診療譚 駆込み訴え】 新出去定

大切なのはなにが万年さきまで残るかではなく、そのときばったりとみえるいまのことだ、地面に砂で描いた絵は半刻とは保たないだろう、しかしそれを描く絵師にとっては、生活のかてであるだけではなく、描いた砂絵は彼の頭から消えることはないだろう、いちばん大切なのは、そのときばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気でなにかをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、そうは思えないか 【ながい坂】三浦主水正

男が一生を賭けた仕事に、あせってやってできるようなものがあるか、おれはこれまでに幾たびも失敗した、これからも失敗するだろうと思う、しかしね、失敗することは本物に近づくもっともよい階段なんだよ、みていてくれ、おれはこんどこそ本物をつかんでみせるからね 【ながい坂】三浦主水正

法師川は雪解けの水でふくらみ、水際にはびっしりと、みずみずしく芹が伸びていた。朝の陽を浴びた河原は暖かく、猫柳はもう葉になっていた。つぢはあやされるような気分になり、少女のころを思いだしながら、吉松を河原に坐らせて、芹を摘み、蓬を摘んだ。【法師川八景】

人間の本性にはいろいろの悪があるけれども、同時に悔恨や慈悲、反省や自制心もある。にもかかわらず、破壊と大量殺人が繰返されるのは、人間の意志が、なにか説明することのできない未知のちからに支配されている、と考えるほかはないのではないか。【おごそかな渇き】

眼ははっきりとさめたが、全身は力がぬけてもの憂く、がらん洞になったような胸の内側に、かなしみとも絶望とも判別しがたい、一種の深い孤独感がひろがってきた。彼はまた眼をつむり、聞えて来る遠い三味線の、幼い途切れ途切れの音色に、ぼんやり耳をかたむけていると、胸いっぱいにひろがってゆく孤独感の深さと、その救いのなさとに息が詰り、急に起きあがって喘いだ。【虚空遍歴】

「わたくしいつもあなたが欲しかったんです、あなたのぜんぶを、残らず、いつも自分のものにしておきたかったんです」と律が云った、「それなのにあなたは、いつもわたくしから遠いところにいらっしゃる、寝屋をともにして、からだは手で触れているのに、あなた御自身はそこにいない、からだがそこにあるだけで、あなたはいつもいないんです、わたくしは本当のあなたという方に、いちども触れたことがありませんでした」 【樅の木は残った】律

へ、いいふりこきが、ときよきは云った。いいことってのはな、体じゅう八万八千の毛穴が一つ一つちぢみあがるような気持だとよ。へええ、それっきりか。そのうえに、おめえのような性分ならこむらげえりがするって云わあ。どうしておらのような者はこむらげえりがするだ。それは好き者だからだべさ。おらが好き者か。眼が下三白で手の甲にほくろのある者は好きだっていうだ。そう云う者はぼんのくぼと踵で這いまわるだとよ。ときよきは云った。【樅の木は残った】

増六はちょっと低頭し、額のところで十字の印を切った。「デウスはインビニイトとて始めも終りもなく、スピリツアルススタンシャとて、色形なき実躰、ヲムニボテンとて万事にかない、サゼエンチイシモとて上なき知恵の源、ジェスイモとて大憲法の本源、ミゼリカウルヂイシモとて大慈悲の源、そのほか諸善万徳の源なのです」【正雪記】増六

「他人の仕事は容赦なくけなしつける、たぶん本当に絵のよしあしはわかるんだろう、けれども彼がしんじつ絵師であるなら、他人の絵などに関心はもたず、自分の絵を描くことにだけ全身をうちこむ筈だ、人は人、自分は自分なんだ、彼は実際に絵を描くよりも、あたまの中で絵をもてあそんでいるだけじゃないか、そんなことなら誰にだってできることだよ」【虚空遍歴】中藤冲也

きょうあの騒ぎのなかで、床の上に投げだされている梅の花枝を見たとき、自分はながいこと空虚だった心の一部がみずみずしい感情で満たされるのを覚えた。日々あの烈しい作業を続けながらそこに花を飾るのはあのかたたちの心に花の位置があるからだ。……どの仕事が正しく戦うものであるかについて、理論をもてあそぶ必要はもうない、ただ考えるだけでも身ぶるいのするあの恐怖もなく、久しく忘れていた花の位置をみつけただけで、自分の戦場がどこにあるかを知るのにじゅうぶんだ。【日本婦道記 花の位置】

「悪人と善人とに分けることができれば、そして或る人間たちのすることが、善であるか悪意から出たものであるかはっきりすれば、それに対処することはさしてむずかしくはない、だが人間は善と悪を同時に持っているものだ、善意だけの人間もないし、悪意だけの人間もない、人間は不道徳なことも考えると同時に神聖なことも考えることができる、そこにむずかしさとたのもしさがあるんだ」【ながい坂】三浦主水正

人間はいかに多くの経験をし、その経験を積みあげても、それで自分を肯定したり、満足することはできない。──現在ある状態のなかで、自分の望ましい生きかたをし、そのなかに意義をみいだしてゆく、というほかに生きかたはない。【山彦乙女】

巳の年と亥の年の騒動が根になって、御新政という暴政を招いた、と云う者がいるけれども、そういう因果関係は観念的な付会であって、新らしく起こる事は、新らしい情勢から生れるものだ。【ながい坂】

大切なのはなにが万年さきまで残るかではなく、そのときばったりとみえるいまのことだ、地面に砂で描いた絵は半刻とは保たないだろう、しかしそれを描く絵師にとっては、生活のかてであるだけではなく、描いた砂絵は彼の頭から消えることはないだろう、いちばん大切なのは、そのときばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気でなにかをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、そうは思えないか 【ながい坂】三浦主水正

「……相手を斬ればおまえも切腹をしなければならぬ、勝っても負けても、今日おまえは生きてはいられなかったのだ、繰り返して云うが、武士には御奉公のほかに捨てるべき命はないものだぞ」 【ならぬ堪忍】 上森又十郎

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