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名も求めず、立身栄達も求めず、ただひとりの戦士として黙々としておのれの信ずる道を生きる、多田新蔵はそういうもののふなのだ、わかるか【石ころ】

「どんなばあいでも、生きることは、死ぬことより楽ではない、まして、いまのおまえは死ぬほうが望ましいだろう、しかし、達弥、おれはおまえに生きていてもらわなければならぬ、単に生きているだけでなく、死ぬよりも困難な、苦しい勤めを受持ってもらいたいのだ」【樅ノ木は残った】原田甲斐

「......おかよ」と彼は空を見あげながら呟いた、「待っているんだぞ、は......八幡宮のお札が無くとも、りっぱに戦った、矢弾丸を避けるのは神護ではない、戦う心だ、死所を誤らぬ覚悟が矢弾丸に勝ったんだ、おまえがそれを教えて呉れた、待っているんだぞ、もうすぐ会える、帰ったら己は、おまえを……おまえを……」【おかよ】弥次郎

「人間が食う心配に追われだしたらおしめえだ、食うってことは毎日だし、生きてる限り食わなくちゃならねえ、そんなことに追われていて男が一生の仕事ができるもんか、おらあそんな心配をしたことあ、一遍もありゃあしねえ」【正雪記】又兵衛

芸というものは、八方円満、平穏無事、なみかぜ立たずという環境で、育つものではない、あらゆる障害、圧迫、非難、嘲笑をあびせられて、それらを突き抜け、押しやぶり、たたかいながら育つものだ、【虚空遍歴】

およそ此の道を学ぶ者にとっては、天地の間、有ゆるものが師である、一木一草と雖ども無用に存在するものではない、先人は水面に映る月影を見て道を悟ったとも云う、この謙虚な、撓まざる追求の心が無くては、百年の修業も終りを完うすることはできない。虎之助は毎もその言葉を忘れなかった【内蔵允留守】

人は誰でも、他人に理解されないものを持っている。もっとはっきり云えば、人間は決して他の人間に理解されることはないのだ。親と子、良人と妻、どんなに親しい友達にでも、――人間はつねに独りだ。

人間は生れてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る、いま眼に見えることだけで善悪の判断をしてはいけない、辛抱だ、辛抱することだ、人間のしなければならないことは辛抱だけだ、【ながい坂】三浦主水正

松はぐらぐらと頭を垂れ、右手には湯呑を持ったまま、台板へ俯伏してしまった。「へえ、まっぴらだよ、なにょウぬかしゃアがる、けつでもくらえだ、……べらぼうめ、女がなんだ、嬶がなんだッてんで」【嘘アつかねえ】

かなしいな、と彼は思った。男と女との結びつき、良人となり妻となることもかなしいし、二人のあいだに交わされる昂奮や陶酔や、さめたあとの飽満もかなしい。肌と肌を触れあい、同じ強烈な感覚にひたりながら、しんじつ二人がいっしょになることはないのだ。【虚空遍歴】

悠二郎は父が案外な手ぬかりをしているのを発見した。それはなにかというと、父は大事にするあまり、金魚どもの鰭や尾が伸びすぎているのに気がつかない、だからそいつらは鰭や尾が邪魔になって、満足に泳ぐことができないのである。――まるで赤ん坊が振袖でも着たように、躯をくねくねさせ、のたのたした草臥れたような恰好で、重たそうにやっとこさ泳ぐのである。悠二郎はそいつらが可哀そうになった。そこで鋏を持って来て、一尾ずつ捉まえて、その伸びすぎた鰭や尾をちょうどいいくらいに切ってやった。――そうして七尾めを切ってやっていたとき、団栗まなこの黒板権兵衛にみつかったのである【桑の木物語】

「――災難と思って諦めるか」彼は口の中で呟いた。「――弱い人間の合い言葉だ」と彼はまた眉をしかめた、「それだから弱い人間はいつも弱いままで置かれるんだ」 【正雪記】与四郎

いざという時にはこうと思いながら、その『いざ』がここだとみきわめることができないで、ついすると平常の覚悟をみうしなってしまいます。心のもちかたほど大切なものはないと、こんどこそ身にしみて悟りました 【日本婦道記 郷土】りう

「おれだけに限っても、若い血をたぎらせて望んだものが、ほぼそのまま自分のものになった、それにもかかわらず、実感としてはなにもつかんだような気がしない、若いころ待ち望んだ輝かしいもの、栄誉や名声のもつ胸のときめくような感動は、若いころよりもはるかに遠く、手の届かないかなたへ去ってしまったように思える、そういう感じはしないか【燕(つばくろ)】

「人間が自分から好んですることには罪はないんだ、自分がそうしたくてすることは、その人間にとってはすべて善なんだ。反対に望みもしないことを望むようにみせたり、自分で信じないことを信じているようによそおうことこそ、罪であり悪というんだ」【栄花物語】信二郎

「そんなにふくれるでねえよ、二郎さん」彼女たちはこんなふうに云う。「顔なんぞふくれたってなんの使いみちもありゃしねえだ、どうせふくらかすだらもっと使いみちのあるところにするがいいだよ」【似而非物語】

「わたくしいつもあなたが欲しかったんです、あなたのぜんぶを、残らず、いつも自分のものにしておきたかったんです」と律が云った、「それなのにあなたは、いつもわたくしから遠いところにいらっしゃる、寝屋をともにして、からだは手で触れているのに、あなた御自身はそこにいない、からだがそこにあるだけで、あなたはいつもいないんです、わたくしは本当のあなたという方に、いちども触れたことがありませんでした」 【樅の木は残った】律

「これではまるで大家のお嬢さまのようでございますわ」 「越梅といえば京大坂から江戸まで知られた大家ですよ」もよ女は大きな胸を反らせながら云った、「——養女といえば娘なんですから、大家のお嬢さまに違いないでしょう、でもあたしのように肥ることはありません」【山茶花帖】もよ女

およそ此の道を学ぶ者にとっては、天地の間、有ゆるものが師である、一木一草と雖ども無用に存在するものではない、先人は水面に映る月影を見て道を悟ったとも云う、この謙虚な、撓まざる追求の心が無くては、百年の修業も終りを完うすることはできない。虎之助は毎もその言葉を忘れなかった【内蔵允留守】

女房が稼げば男はだめになるなんて、それは男が稼いで女を養ってやる、っていう思いあがった考えよ、亭主が仕事にあぶれたとき、女房が稼いでどうして悪いの、男だって女だっておんなじ人間じゃないの、この世で男だけがえらいわけじゃないのよ 【さぶ】おのぶ

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