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一つ一つ、桑の木に手を触れながら、三十八本まで数え終ると、もはやがまんが切れ、そこへ棒立ちになって面を掩おおった。「おれのと、おまえのと、毎年二本ずつ、あれからずっと、欠かさず植えてきた」「――――」「夏になって、実が生ると、おれは独りで此処へ来て、おまえに呼びかけながら、この実を摘んで喰べた――この実で酒を醸して、おまえに呼びかけながら、更けた寝所で独りそっと飲む癖もついた、おまえはいつもおれの側にいたのだ、わかるか、悠二郎【桑の木物語】正篤

大切なのはなにが万年さきまで残るかではなく、そのときばったりとみえるいまのことだ、地面に砂で描いた絵は半刻とは保たないだろう、しかしそれを描く絵師にとっては、生活のかてであるだけではなく、描いた砂絵は彼の頭から消えることはないだろう、いちばん大切なのは、そのときばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気でなにかをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、そうは思えないか 【ながい坂】三浦主水正

「初めはほんとにそうだったの、正直に云うけれど、初めのころはあの人を見ると、ここんところに」おりうは下腹部へ手をやった、「ここんところの奥のほうに、ちょうど手を握ったくらいの大きさのものができて、それが生き物のようにぐうっと動くのよ」 【滝口】おりう

「わたくしいつもあなたが欲しかったんです、あなたのぜんぶを、残らず、いつも自分のものにしておきたかったんです」と律が云った、「それなのにあなたは、いつもわたくしから遠いところにいらっしゃる、寝屋をともにして、からだは手で触れているのに、あなた御自身はそこにいない、からだがそこにあるだけで、あなたはいつもいないんです、わたくしは本当のあなたという方に、いちども触れたことがありませんでした」【樅の木は残った】律

「わたくしはただひとすじに戦うだけでございます、戦がお味方の勝になればよいので、ひとりでも多く敵を討って取るほかには余念はございません、さむらい大将を討ったからとて功名とも思いませぬし、雑兵だからとて詰らぬとも存じません、名乗って出なかった仔細と申せばこの所存ひとつでございます」【青竹】余吾源七郎

「生きることはむずかしい」暫くして、郷臣は囁きのように云った、「人間がいちど自分の目的を持ったら、貧窮にも屈辱にも、どんなに強い迫害にも負けず、生きられる限り生きてその目的をなしとげることだ、それが人間のもっとも人間らしい生きかただ、ひじょうに困難なことだろうがね」【天地静大】水谷郷臣

「人間は弱いもんだ、気をつけていても、ひょっと隙があれば、自分で呆あきれるようなまちがいをしでかす、……だれかれと限らない、人間にはみんなそういう弱いところがあるんだ、……ここをよく覚えておいて呉れ、いいか、……そんなこともあるまいが、長いあいだには、時三も浮気ぐらいするかもしれない、……そのときは堪忍してやれ、夫婦のあいだのまちがいは、お互いに堪忍しあい、お互いに劬り、助けあってゆかなくちゃならない、それが夫婦というものなんだよ」【寒橋】 伊兵衛

私が書く場合に一番考えることは、政治にもかまって貰えない、道徳、法律にもかまって貰えない最も数の多い人達が、自分達の力で生きて行かなければならぬ、幸福を見出さなければならない、ということなのです。一番の頼りになるのは、互いの、お互い同士のまごころ、愛情、そういうものでささえ合って行く……………これが最低ギリギリの、庶民全体のもっている財産だと私は思います。(「お便り有難う」 1960年)#fedibird

人間が生れてくるということはそれだけで壮厳だ。しかしもしその生涯が真実から踏み外れたものなら、その生命は三文の価値もない、狡猾や欺瞞はその時をごまかすことはできても、百年歴史の眼をもってすれば狐の化けたほどにも見えはしないぞ。【夜明けの辻】功刀伊兵衛

「信じて頂けないかもしれないが、遊んでいるということも、決して気楽なものではないんですよ」【正雪記】

「覚えていらっしゃい、――小松はきっとあなたを自分のものにします、たとえ死骸にしてでも、きっとあたしのものにしてみせます、ようございますか」【正雪記】小松

怒りが爆発した。全身の血が燃えるように感じられた。あれほど念を押し、二度まで誓言して置きながら、今になって獺のように逃げるとは、 「市之丞、やらぬぞッ」 伊兵衛は空に向って叫んだ。【新女峡祝言】伊兵衛

「――なにごとも人にぬきんでようとすることはいい、けれども人の一生はながいものだ、一足とびに山の頂点へあがるのも一歩一歩としっかり登ってゆくのも結局同じことになるんだ、一足跳びにあがるより、一歩ずつ登るほうが途中の草木や泉やいろいろな風物を見ることができるし、それよりも一歩一歩を慥かめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力になるものだ、わかるな」【ながい坂】

名も求めず、立身栄達も求めず、ただひとりの戦士として黙々としておのれの信ずる道を生きる、多田新蔵はそういうもののふなのだ、わかるか【石ころ】

「早まった、お町どの、どうしてこんな」「いいえ、いいえ、町はもう、欣弥の許へ嫁ぐとき死んでいたのでございます、ただ、今日まで、この仔細をあなたさまにお伝え申したいため、ただそのために屍を保っていたのです。……夏雄さま、お父上の敵は申上げたお二人、いま寺内に、家中の者十三名と待伏せている筈です、どうぞ……おぬかりなく」 【秋風不帰】お町

ひとから物を借りればいつかは礼を付け返さなければならない。返せない借物なら、それに代るだけの事をするのが人間の義理である。世の中に生きて、眼に見えない多くの人たちの恩恵を受けるからには、自分も世の中に対してなにかを返さなければならないだろう、自分はそれをしたであろうか。【新潮記】

巳の年と亥の年の騒動が根になって、御新政という暴政を招いた、と云う者がいるけれども、そういう因果関係は観念的な付会であって、新らしく起こる事は、新らしい情勢から生れるものだ。【ながい坂】

「おんなしこったに、たとえおめえらがいって来るにしろ、めんどくせえこたあやっぱりめんどくせえでねえ、おら他人がやるにしろ、めんどくせえこたあでえ嫌えだに」【似而非物語】杢助

――胸いっぱいに溢れてくる烈しい情熱。昼、お徒士町で計らずも浅二郎の真の姿を見た刹那から、堰を切ったように燃えはじめた愛情のほのお。生れて初めて感ずる抵抗し難い欲求に、彼女の体は熱い烈しい悶えに悩んでいるのだった。【入婿十万両】

人間は自分のちからでうちかち難い問題にぶっつかると、つい神に訴えたくなるらしい、――これがあなたの御意志ですかとね、それは自分の無力さや弱さや絶望を、神に転嫁しようとする、人間のこすっからい考えかただ、【おごそかな渇き】

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