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この小冊子を読んで、私の小説のほうも読んでみよう、という読者があれば仕合せだが、これでは小説なんか読むまでもない、とそっぽを向かれるようなことになると、私としては生活の手段を他に求めなければならなくなるので、どうかそんなことになりませんようにと、いまから祈っているわけであります。昭和三十六年十二月【随筆「小説の効用」への序文】

松はぐらぐらと頭を垂れ、右手には湯呑を持ったまま、台板へ俯伏してしまった。「へえ、まっぴらだよ、なにょウぬかしゃアがる、けつでもくらえだ、……べらぼうめ、女がなんだ、嬶がなんだッてんで」【嘘アつかねえ】

人間は生れてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る、いま眼に見えることだけで善悪の判断をしてはいけない、辛抱だ、辛抱することだ、人間のしなければならないことは辛抱だけだ、【ながい坂】三浦主水正

二人はそこでたびたび逢った。そこの、向うの、こっちから五本めの木蔭がそれだ。おていが先に来ていることもあり、用があって、おくれて来て、すぐに帰ったこともある。その向うの 五本めの木蔭だ。おれが仕事の都合でおくれて、駆けつけて来ると、あいつはその木に凭れていて、いってみると泣いていたことがあった。どうしたんだ、と云ったら、とびついて来て、「ああよかった」と云った。ああよかった、もうあんたは来てくれないのかと思ってたのよ、「うれしい」と云って、おれにしがみついた。しがみついて泣いた。いまでもはっきり思いだせる、「うれしい」と云って、あいつはおれにしがみついて泣いた。 【並木河岸】鐡次

眼ははっきりとさめたが、全身は力がぬけてもの憂く、がらん洞になったような胸の内側に、かなしみとも絶望とも判別しがたい、一種の深い孤独感がひろがってきた。彼はまた眼をつむり、聞えて来る遠い三味線の、幼い途切れ途切れの音色に、ぼんやり耳をかたむけていると、胸いっぱいにひろがってゆく孤独感の深さと、その救いのなさとに息が詰り、急に起きあがって喘いだ。【虚空遍歴】

「......おかよ」と彼は空を見あげながら呟いた、「待っているんだぞ、は......八幡宮のお札が無くとも、りっぱに戦った、矢弾丸を避けるのは神護ではない、戦う心だ、死所を誤らぬ覚悟が矢弾丸に勝ったんだ、おまえがそれを教えて呉れた、待っているんだぞ、もうすぐ会える、帰ったら己は、おまえを……おまえを……」【おかよ】弥次郎

青みを帯びた皮の、まだ玉虫色に光っている、活きのいいみごとな秋鯵だった。皮をひき三枚におろして、塩で緊めて、そぎ身に作って、鉢に盛った上から針しょうがを散らして、酢をかけた。……見るまに肉がちりちりと縮んでゆくようだ、心ははずむように楽しい、つまには、青じそを刻もうか、それとも蓼酢を作ろうか、歌うような気持でそんなことを考えていると、店のほうから人のはなし声が聞えて来た。 【柳橋物語】

「──意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛抱、──人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」【樅の木は残った】原田甲斐

私が書く場合に一番考えることは、政治にもかまって貰えない、道徳、法律にもかまって貰えない最も数の多い人達が、自分達の力で生きて行かなければならぬ、幸福を見出さなければならない、ということなのです。一番の頼りになるのは、互いの、お互い同士のまごころ、愛情、そういうものでささえ合って行く…………… これが最低ギリギリの、 庶民全体のもっている財産だと私は思います。(「お便り有難う」 1960年)#fedibird

「蓄音器のよ、レコードを買い始めたべえ、いくらでも買うだ、二階がみしみしいうほど買って買ってよ、朝っから晩までそれを聞いてるだよ、そのうちにな、レコードの数が殖えるのといっしょに、だんだん頭がおかしくなってきたんべえ、それでよ、嫁を貰ったら治るべえかって、葛飾のほうから嫁を貰ったっけだ、そしたら頭あちっとも治らねえで、水汲みい始めただ」【青べか物語 水汲みばか】

「──意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛抱、──人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」【樅の木は残った】原田甲斐

「猫なんか恩のおの字も知りゃあしないよ、猫にできるのは化けるくらいのものさね」【季節のない街】

この世に起こること、人間のすることはすべて善い、愛したり憎んだり、斬ったり斬られたりしながら、それらすべての経験によって、人間ぜんたいが成長してゆくのだ、【天地静大】

「一期のご合戦に先陣をのぞむのは誰しもおなじことだ、けれども誰かは留守城をあずからねばならぬ。先陣をつるぎの切尖とすれば本城のまもりは五躰といえよう、五躰のちからまったくしてはじめて切尖も充分にはたらくことができるのだ、たとえ先陣、留守の差はあっても、これを死處とする覚悟に二つはないぞ、わかるか信次」【死處】 夏目吉信

人間が生れてくるということはそれだけで壮厳だ。しかしもしその生涯が真実から踏み外れたものなら、その生命は三文の価値もない、狡猾や欺瞞はその時をごまかすことはできても、百年歴史の眼をもってすれば狐の化けたほどにも見えはしないぞ。【夜明けの辻】功刀伊兵衛

胸毛は熊のように濃かった。また脛の毛とくると信じられないほどであった。夏になると、そのみっしり生えた脛毛の中でいつも二三疋の蚊が悲鳴をあげていた。蚊たちは血を吸いにもぐり込むが、脛毛の藪があんまり密なので、それにひっかかって脱出することができなくなるのであった。六助はきげんのいいときには、毛をかきわけてかれらを逃がしてやるのを楽しみにした。【秋の駕籠】

人間が大きく飛躍する機会はいつも生活の身近なことのなかにある、高遠な理想にとりつくよりも実際にはひと皿の焼き味噌のなかに真実を噛み当てるものだ。【日本婦道記 尾花川】

「——薬草ばかりじゃあねえ、人間だって町でくらせば精分がぬけちまうさ、そうしちゃあいけねえ、こうしちゃあいけねえ、それはだめだあれはだめだって、つまらねえことにがんじ搦めにされて、しょっちゅうあいそ笑いをしたり世辞やおべっかを使ったりして、ろくさま**も立たねえような腰抜けか、きょときょと眼を光らせている小猜いくわせ者になっちまう、町に住んでるやつらはみんなそうだ、みんな鋳型にはめられて、面白くも可笑しくもねえ人間になっちまう、おらあそんなことはまっぴらだ」 【ながい坂】大造

「豊四郎は運の悪い生れつきだったけれど、あなたという方にめぐりあえて仕合せでした」と夫人が云った。 「これからはあなたが仕合せになる番ですよ」【法師川八景】

人間は自然のために翻弄されてきた。恵まれ与えられると同時に、奪われたりふみにじられたりする。自然そのものは云いようもなく荘厳で美しいが、その作用はしばしば恐怖と死をともなう。人間はその作用とたたかい、それを抑制したり、逆用したりすることをくふうしてきた。その幾十か幾百かはものにしたが、どの一つも完全にものにはできなかった。いま降っているこの雨のように、用心していても、しっぺ返しにあうようなことが繰返されるのだ。「自然の容赦のない作用に比べれば」と主水正は声に出して云った、「貧富や権勢や愛憎などという、人間どうしのじたばた騒ぎは、お笑いぐさのようなものかもしれない」

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