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およそ此の道を学ぶ者にとっては、天地の間、有ゆるものが師である、一木一草と雖ども無用に存在するものではない、先人は水面に映る月影を見て道を悟ったとも云う、この謙虚な、撓まざる追求の心が無くては、百年の修業も終りを完うすることはできない。虎之助は毎もその言葉を忘れなかった【内蔵允留守】

私が書く場合に一番考えることは、政治にもかまって貰えない、道徳、法律にもかまって貰えない最も数の多い人達が、自分達の力で生きて行かなければならぬ、幸福を見出さなければならない、ということなのです。一番の頼りになるのは、互いの、お互い同士のまごころ、愛情、そういうものでささえ合って行く…………… これが最低ギリギリの、 庶民全体のもっている財産だと私は思います。(「お便り有難う」 1960年)#fedibird

私が書く場合に一番考えることは、政治にもかまって貰えない、道徳、法律にもかまって貰えない最も数の多い人達が、自分達の力で生きて行かなければならぬ、幸福を見出さなければならない、ということなのです。一番の頼りになるのは、互いの、お互い同士のまごころ、愛情、そういうものでささえ合って行く…………… これが最低ギリギリの、 庶民全体のもっている財産だと私は思います。(「お便り有難う」 1960年)#fedibird

保之助は酒を飲もうとした。しかしもう徳利は二つとも空であった。彼は唇を嚙んで頭を振った。額にどす黒い皺がより、こめかみに太く血管があらわれた。肉躰的な苦痛が、いまは一種の快感に変るようであった。化膿した歯齦を強く押すときの、むず痒い痛みに似た快感であった。【天地静大】

踏み削られ、形を変え、しだいに小さくなってゆく。それがここにあるこの岩の、どうにもならない運命だ。どんなにもがいてもその枠からぬけ出ることはできない。人間にも同じような運命からぬけ出ることができず、その存在を認められることもなく、働き疲れたうえ、誰にも知られずに死んでゆく者が少なくないだろう。【おごそかな渇き】

人間には平和や家庭や健康で優秀な妻子や、きちんと貰える月給のほかにも大切なものがあるんだ、そのために身を削るほど苦しんでいる者だっているんだぞ、ばかにするな。【陽気な客】

人間は自分のちからでうちかち難い問題にぶっつかると、つい神に訴えたくなるらしい、――これがあなたの御意志ですかとね、それは自分の無力さや弱さや絶望を、神に転嫁しようとする、人間のこすっからい考えかただ、【おごそかな渇き】

厚く雲のかさなった、星ひとつ見えない空は、冬のきびしい威厳を無辺際に大きく、重おもしく示しているように感じられ、地上にあるすべてのものは、その下で身をちぢめ息をひそめているように思えた。【ながい坂】

胸毛は熊のように濃かった。また脛の毛とくると信じられないほどであった。夏になると、そのみっしり生えた脛毛の中でいつも二三疋の蚊が悲鳴をあげていた。蚊たちは血を吸いにもぐり込むが、脛毛の藪があんまり密なので、それにひっかかって脱出することができなくなるのであった。六助はきげんのいいときには、毛をかきわけてかれらを逃がしてやるのを楽しみにした。【秋の駕籠】

「人間はね、善良であるだけでは、いけないんだ、善良であるためには闘わなければならない、単に善良であるというだけでは、寧ろ害悪でさえあるというべきなんだぜ」【火の杯】近田紳二郎

五十四年もおめえ、使いっきり使ってきた軀だ、そうじゃねえか、それでどこにもあんべえ の悪いところがねえとすれば、そのほうがよっぽど奇天烈だ、そいつは鬼か魔物くれえのもんだ【瓢かんざし】

罪は人間と人間とのあいだにあるもので、法と人間とのあいだにあるものじゃない、——が、そんなことはどっちでもいい、人間ていうやつはみんな愚かなものだし、生きるということはそれだけで悲惨なものさ、ちえっ【栄花物語】信二郎

いま益村家の庭は秋のさかりで、別棟になった数寄屋のまわりにある杉林の、黒ずんだ緑のあいだから、若木の楓のみごとに紅葉した枝の覗いているのが、朱を点じたようにあざやかに眺められた。池のまわりにある芒はみな穂をそろえているが、風がまったくないので、その穂はみなひっそりと、秋の午前の陽ざしをあびたまま動くけはいもなかった。【滝口】

「主従とか夫婦、友達という関係は、生きるための方便か単純な習慣にすぎない、それは眼に見えない絆となって人間を縛る、そして多くの人間がその絆を重大であると考えるあまり、自分が縛られていることにも気がつかず、本当は好ましくない生活にも、いやいやひきずられてゆくんだ」 「おれはそんなふうに生きたくはない」【天地静大】水谷郷臣

「妻も子もなく、親しい知人もないのだろう、木賃宿からはこびこまれたのだが、誰もみまいに来た者はないし、彼も黙ってなにも語らない、なにを訊いても答えないし、今日までいちども口をきいたことがないのだ」去定は溜息をついた、「この病気はひじょうな苦痛を伴うものだが、苦しいということさえ口にしなかった、息をひきとるまでおそらくなにも云わぬだろう、――男はこんなふうに死にたいものだ」【赤ひげ診療譚 駈込み訴え】新出去定

「おれだけに限っても、若い血をたぎらせて望んだものが、ほぼそのまま自分のものになった、それにもかかわらず、実感としてはなにもつかんだような気がしない、若いころ待ち望んだ輝かしいもの、栄誉や名声のもつ胸のときめくような感動は、若いころよりもはるかに遠く、手の届かないかなたへ去ってしまったように思える、そういう感じはしないか【燕(つばくろ)】

「本当の親か、本当の子かなんてことはね、誰にもわかりゃしないんだよ」良太郎は仕事に戻りながら、いかにもやわらかに云った、「お互いにこれが自分のとうちゃんだ、これはおれの子だって、しんから底から思えればそれが本当の親子なのさ、もしもこんどまたそんなことを云う者がいたら、おまえたちのほうからきき返してごらん、――おまえはどうなんだって」【季節のない街】

「人を殺しても悪かったと一度も思わぬような奴は、やくざの気風かも知れぬが、人間じゃあない犬畜生だ、犬畜生を親の敵と狙う私じゃあありません──だが、悪い事をしたと後悔して、人らしくなればお父さんの仇、今こそ恨みを晴らさなければなりません、甲府の小父さん──放して下さい」【無頼は討たず】半太郎

「高慢だな、その考えかたは」 「おれは恥じているんだぜ」 「いや高慢だ、自分で自分を裁くのは高慢だ、本当に謙遜な人間なら、他人をも裁きはしないし自分を裁くこともしないだろう、侍がおのれにきびしく謙遜で、人には寛容であれというその考えかたからして、腰に刀を差し四民の上に立つという自意識から出たもので、それ自身がすでに高慢なんだ」【虚空遍歴】生田半二郎

じじじと油皿の鳴る音がして、ついに行燈の火がはたと消えた。部屋は一瞬まっ暗になったが、やがてほのかに薄明のように光がうきだしてきた。 窓の障子が、いっぱいの雪明りだった。【山女魚】

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