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へ、いいふりこきが、ときよきは云った。いいことってのはな、体じゅう八万八千の毛穴が一つ一つちぢみあがるような気持だとよ。へええ、それっきりか。そのうえに、おめえのような性分ならこむらげえりがするって云わあ。どうしておらのような者はこむらげえりがするだ。それは好き者だからだべさ。おらが好き者か。眼が下三白で手の甲にほくろのある者は好きだっていうだ。そう云う者はぼんのくぼと踵で這いまわるだとよ。ときよきは云った。【樅の木は残った】

増六はちょっと低頭し、額のところで十字の印を切った。「デウスはインビニイトとて始めも終りもなく、スピリツアルススタンシャとて、色形なき実躰、ヲムニボテンとて万事にかない、サゼエンチイシモとて上なき知恵の源、ジェスイモとて大憲法の本源、ミゼリカウルヂイシモとて大慈悲の源、そのほか諸善万徳の源なのです」【正雪記】増六

「人を殺しても悪かったと一度も思わぬような奴は、やくざの気風かも知れぬが、人間じゃあない犬畜生だ、犬畜生を親の敵と狙う私じゃあありません──だが、悪い事をしたと後悔して、人らしくなればお父さんの仇、今こそ恨みを晴らさなければなりません、甲府の小父さん──放して下さい」【無頼は討たず】半太郎

「二時間でよ、おめえ」と一人が云った、「それも初めてだっていうだに、三度も幟がおっ立ったなんて考げえられっか」「買収しただな」と他の一人が云った、「女に金轡を嚙ましただ」【青べか物語 砂と柘榴】

「一日々々がぎりぎりいっぱい、食うことだけに追われていると、せめて酔いでもしなければ生きてはいられないものです」【赤ひげ診療譚 むじな長屋】 佐八

保之助は酒を飲もうとした。しかしもう徳利は二つとも空であった。彼は唇を嚙んで頭を振った。額にどす黒い皺がより、こめかみに太く血管があらわれた。肉躰的な苦痛が、いまは一種の快感に変るようであった。化膿した歯齦を強く押すときの、むず痒い痛みに似た快感であった。【天地静大】

保之助は酒を飲もうとした。しかしもう徳利は二つとも空であった。彼は唇を嚙んで頭を振った。額にどす黒い皺がより、こめかみに太く血管があらわれた。肉躰的な苦痛が、いまは一種の快感に変るようであった。化膿した歯齦を強く押すときの、むず痒い痛みに似た快感であった。【天地静大】

――おれは間違って生れた。と甲斐は心のなかで呟いた。けものを狩り、樹を伐り、雪にうもれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする。そして欲しくなれば、ふじこやなをこのような娘たちを掠って、藁堆や馬草の中で思うままに寝る。それがおれの望みだ、四千余石の館も要らない。伊達藩宿老の家格も要らない、自分には弓と手斧と山刀と、寝袋があれば充分だ。 ――それがいちばんおれに似あっている。【樅の木は残った】

世の中には生れつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生れつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ、ここをよく考えておくれ、栄さん 【さぶ】与平

月はかなり西に移ってい、空には雲の動きも見えた。岸の草むらでは虫の鳴く音がしきりに聞え、微風が芦をそよがせると、葉末から露がこぼれ、空気がさわやかな匂いに満たされた。雲が月のおもてにかかると、そのときだけはあたりがほの暗くなるが、雲が去ると、これらの風景ぜんたいが、明るくて青い、水底の中にあるように眺められた。 【青べか物語 芦の中の一夜】

芸というものは、八方円満、平穏無事、なみかぜ立たずという環境で、育つものではない、あらゆる障害、圧迫、非難、嘲笑をあびせられて、それらを突き抜け、押しやぶり、たたかいながら育つものだ、【虚空遍歴】

傾いた陽が斜めからさして、透明な碧色にぼかされた山なみの上に、蔵王の雪が鴇色に輝いていた。朝見たときの青ずんだ銀白の峰は、冷たくきびしい威厳を示すようであったが、いまはもの静かに、やさしく、見る者の心を温めるように思えた。【樅の木は残った】

「豊四郎は運の悪い生れつきだったけれど、あなたという方にめぐりあえて仕合せでした」と夫人が云った。 「これからはあなたが仕合せになる番ですよ」【法師川八景】

「男なんてものは、いつか毀れちまう車のようなもんです」とおえいは云った、「毀れちゃってから荷物を背負うくらいなら、初めっから自分で背負うほうがましです」【赤ひげ診療譚 氷の下の芽】おえい

「万全の手段などというものはない、そういう考えかたは老人のものであり、燃えあがるべき火を消す役にしか立たない、いいか、われわれの目的を要約して云えば、伝統を打ち壊すということだろう、それを常識に即してやろうというのは間違いだ、根本的な考え違いなんだ」【燕(つばくろ)】渡貫藤五

「にっぽんかいびゃく以来、あんなお人好しのおたんこなすは見たこともねえ」と男たちは云った、「おれっちがかいびゃくこのかた生きて来たわけじゃねえにしろさ」【季節のない街】

「人間というものは」と宗岳も茶碗を取りながら云った、「自分でこれが正しい、と思うことを固執するときには、その眼が狂い耳も聞えなくなるものだ、なぜなら、或る信念にとらわれると、その心にも偏向が生じるからだ」【ながい坂】

「――死んでしまった人のことなんかどうでもいいではないの。それより生きている者のほうが大事よ」【竹柏記】千寿

「人間というものは」と宗岳も茶碗を取りながら云った、「自分でこれが正しい、と思うことを固執するときには、その眼が狂い耳も聞えなくなるものだ、なぜなら、或る信念にとらわれると、その心にも偏向が生じるからだ」【ながい坂】

「わたくしいつもあなたが欲しかったんです、あなたのぜんぶを、残らず、いつも自分のものにしておきたかったんです」と律が云った、「それなのにあなたは、いつもわたくしから遠いところにいらっしゃる、寝屋をともにして、からだは手で触れているのに、あなた御自身はそこにいない、からだがそこにあるだけで、あなたはいつもいないんです、わたくしは本当のあなたという方に、いちども触れたことがありませんでした」 【樅の木は残った】律

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